2013年10月10日木曜日

復習の際のLesson21について

☆翻訳者より☆

過去にすでに一度やったレッスンですが、再度レッスン21をやります。

ご存知の通り、レッスン21から数日のレッスンは、怒涛のように内面を深く見つめていくレッスンです。

数あるレッスンの中でも、自分の中のまさしく感情や観念を深く見るレッスンです。

具体的にはレッスン21は『怒り』についてです。

そして、自我の判断から「誰々のこれこれについてこれは怒って当然だ」という怒りの奥にある『攻撃性の正当化』という強固な観念を「もう一度」、解体するためのレッスンです。

レッスン21は怒りそのものより、怒りの奥にある『攻撃性の正当化』という私たちの自我の奥底にある強固な観念をみていくレッスンです。

会社で、職場で、家庭で、夫婦関係や親子関係で、私たちの自我は「自分が怒る理由」の正当性をいつも探しているかもしれません。

つまり、自我から見て、その自我が「こうであるべき」と思っている自我のルールと違うものに遭遇した時、攻撃性を持つのは正当であるという『観念』を当然だと思って生きています。

《私は物事を違った目で見ることを決意しています。》とたとえレッスンの数分でも受け入れるいうのは、強固な怒る・責めることの正当性という自我の観念を一瞬でも手放さなければなりません。

このレッスンの深さは、過去に一度やった時よりも、深く染みるかもしれません。

レッスン111以降のレッスンを受け取り尽くすために、知らず知らず目をそむけていたある一面、あるいは見ることさえしてこなかったある一面をもう一度見ていきましょう。

特に、レッスン91以降から、レッスンが辛かったり、自我の抵抗が強く出てレッスンに向き合う気持ちの停滞を感じている人もいるかもしれません。

一方で、レッスンそのものが楽しくなってきたり、レッスンから、あるいは聖霊から、「受けとるとはこういうことなんだ」という新鮮な体験をし始めている方もいるでしょう。

この違いは、個人的な資質の違いではありません。個人的な資質よりもむしろ、この奇跡のコースの前提の理解がされているかいないかということにあるようです。

ポイントは「神の使者」です。

神の使者を2・3回と複数回以上読んでいる人は、レッスンから受け取りやすくなっているようです。

個人的な生きやすさや、自己肯定感、ある種の目覚めの片鱗、シンクロの増加などを経験し、まさに奇跡のコースが「奇跡」だということが体感的にわかるという体験です。
(現時点とレッスン200を超えてからでは、同じような体験でもまた次元や見ている世界が違ってきますが・・・)

一方で、神の使者をあまり読んでないという方や、一回しか読んでないという方はちょっとレッスン91~レッスン110が苦しかったり、自我がかえって強くなったりしている方が多いようです。
(自我はレッスンをされて自我の解体が進むと困るので・・・)

神の使者は一回だけ読んでもなんだかよくわからないというのが正直な感想だと思います。

そして、読むのにも自我が邪魔して、眠くなったり、やめたくなったり、ついつい別のことをしたくなります。

しかし、二回目、三回目と読み返してみると、やっとどれほど深い事が書いてあるのかがわかります。

ある瞬間、ふと感動や感嘆がやってきます。(この感覚はもちろん個人差はあります)

そういう意味ではモーツァルトの音楽に似ています。(何度も触れてやっとその凄さがわかるという点において)

また、神の使者を一度も通しで最後まで読んでないという方は、レッスン120以降やテキスト編の理解が苦しくなると思います。なので、必ず2・3回は読むようにしていただけたらと思います。