2013年10月10日木曜日

翻訳者からの提案 Lesson111に入る前に・・・

☆翻訳者より☆

レッスン111以降を受けとり尽くすために・・・。

これからのレッスンを吸収していく上で、レッスン19~レッスン27の復習と、テキストを集中的に読み進める時期を設けることを強くお勧めします。

レッスン27までと、テキスト編をある程度理解していないと先々のレッスンの内容が理解しきれなくなるかもしれないからです。

レッスンの内容といっても頭や理屈で理解するという意味ではありません。

レッスンを通して伝えられることが「理屈でなく、身体感覚としてわかる」という意味です。

レッスン91を越えたあたりから、むしろ「自我が本来的に解体される危機感を感じ」「自我の主張や自我そのものに飲み込まれる」事が増えた方もいらっしゃると思います。

いわゆる、『自我が暴れる』というものです。

これは、「レッスンがうまく出来てないということ」ではありません。

むしろ、レッスンが見えないところで、さらに動き始めているからこそ、自我がかえって、レッスンに対する抵抗や、日常生活において自我の主張、自我そのものにまた引き戻そうとする自我の抵抗であり、実はレッスンがじわじわと効いてきていることなのです。

けれども、ここで「自我の仕組み」や、「このレッスンの背景」の理解を充実させておくことが、大切なタイミングとなります。

レッスンに対しての自我の悪あがきを「自我の観察者」として「自我」を見抜き、「自我そのものに飲み込まれ、自我そのものになりきらない」ことが必要になります。

何度も繰り返されてきたように、自我は私たち自身ではなく、私たちが自身だと思い込んできた過去のパターンでしかありません。

テキストを読むに当たっては、何回か読み返しても「内容を理解し尽くせる」とは思わないというスタンスが大切になります。

つまり、一読して、「わかったような気にならない」ように気をつけるという事がポイントになります。

「神の使者」ゲイリー・レナード著を何回も呼んだりした方は、一度目に読んだ時と二度目に読んだ時、そして、その後読んだ時に、「ええぇ!こんな事が書いてあったんだ!」とビックリされた方もいるかと思います。

つまり、最初読んだ時は単なる頭で理解しようとしてしか読んでいなかったことに気付き、どれほど深いエッセンスが詰まっていたかが、その時の自分ではわからなかった、ということに愕然とし、また中身のとんでもない深さを知れば知るほど、感動を越えた感嘆を感じたはずです。

テキストはさらにその深さが半端じゃないです。

もちろん、自我はテキストに対して、あらんかぎりの大抵抗をします。

わかったふりをさせようとするかもしれません。

自我の狭い理屈で、反論や反感を抱かせようとするかもしれません。

眠たくさせるかもしれません。

読むのを遠ざけようと、スルーさせようとするかもしれません。

けれども、集中的にテキストに触れるということは、レッスン111以降のレッスンから受け取れる深さが段違いに変わります。

テキストは、この時期に何度も読み返すとよいかとは思います。