2013年10月10日木曜日

ゆるしきったときには・・・

師の言葉より・・・。

自我的に大きな出来事があったときこそ、その出来事に対してひとかけらの感情的意味づけも残さない、つまり完全にゆるし(取り消し)尽くす絶好のチャンスです。

「ゆるし」と一言で簡単に言っても、実際には、一度聖霊にゆだねただけではゆるしきれないことが多いでしょう。

わたしたちの感情も玉ねぎの皮のように幾層にも重なっていますし、自我という過去からのパターンも何千年もの間に積み重なってきたものであり、それらをすぐにすぐ取り消せはしないかもしれません。

でも、諦めずに何度も何度もくり返し、聖霊にゆだねつづけます。

ゆるしてもゆるしても、ゆだねてもゆだねても、感情的なもやもやが残っていれば、まだまだゆるして聖霊にゆだねつづけます。

そして、何十回か何百回かはわかりませんが、ゆるしつづける中で、その出来事に関して感情的意味づけがなくなり、ふと静けさややすらぎが訪れる瞬間がきます。

自我はそれでも、あなたが感情的に嫌だと思うことを正当化する理由を探しつづけますが、そのときもゆるしを行いつづけます。

完全にゆるしきれたとき、その出来事を過去の出来事として、感情的なものがない状態でただの出来事として眺めていられるようになります。

ゆるしきれたかどうかの基準のひとつとして、その出来事を眺めたときに、自我のやっていることは本当に滑稽だと笑い飛ばせる話になったときには、おそらくその自我に関してはゆるしが終わったのでしょう。

ゆるしをくり返し行う中で、自我が投影させ、あたかも現実であるかのように思わせている、感情を動揺させる出来事や概念について、とにかくひたすらゆるし(取り消し)つづけていくと、聖霊が包んでくれているのがよりわかりやすくなるでしょう。