2013年10月8日火曜日

不死

師の言葉より・・・。

自我とは自分の本質や神と離れた分離感や欠乏感であり、いつも足りないとか不安という意識を持って、完全なものがどこかにあるはずだと探し求め続けます。

わたしたちは、「自分を知りたい」という意識がある限り、真実の愛(天意)を探し続ける限り、永遠に生まれ変わりの旅をくり返します。

そして、その途中の道はどうであれ、魂の奥深いところで、自分が何者であるかを知ったとき、つまりは、自分は神そのものであったということを知ったときに、その旅は終わります。

終わりは始まりであり、そこには時間も空間も存在しないので、ただなにもなかった、長い長い夢を見ていたことがわかり、夢から目覚めるのです。

奇跡のコースは、旅を終わらせることができる数ある方法のひとつであり、わたしたちは夢から目覚めるためにこの道具を使っています。

レッスンでもくり返されていますが、わたしたちは肉体ではなく、死によって終わるような儚い存在ではありません。

肉体は、こちらの世界を体験するための単なるツール(あちらの世界とこちらの世界を行き来する際に、着物のように脱ぎ着をする)であり、わたしたちが肉体でなければ死や老化を恐れる必要はありません。

今生での生の終わりはわたしたちの存在の終わりではなく、「あの世」という新しい世界への単なる移行で、こちらの世界とあちらの世界を行き来しているだけだと受け容れられると、ぎゅっとしがみついているものを徐々に手放していけるでしょう。

本来は神と同体であり、それこそがまさにわたしたちの自己ですが、この旅のはじまりのとき、自分がなにであるかを光の外に探し始め、そこから自我という過去やパターンというものをわたしたちは作りだしました。

でも、そこに本質はないと気づき始めたわたしたちは、レッスンを通して自我という宗教をやめてみることで、時間や過去や死への幻想が薄らいでゆき、新しい可能性をどんどん築いていきます。

レッスンを通して、死ぬということは不可能だということに気づくときがおそらくくるでしょうが、死への恐れから覚めたとき(自分は肉体でないと知ったとき)には、この幻想の世界を、瞬間瞬間を楽しんで味わい尽くすことしかできない(意味がない)ということを知ることになります。