2013年10月10日木曜日

学びのプロセス(教師のためのマニュアルより抜粋)

師の言葉より・・・。

レッスン100を超え、あまりにもリアルレッスンが続いたり、自我に揺さぶりをかけられて、本当にレッスンができているのだろうか、落ちこぼれでJからも見放されるのではないかという自我のささやきが時に聞こえてくるかもしれません。

下記は、奇跡のコース「教師ためのマニュアル」から、学びのプロセスについて書いてある部分を抜粋してあります。

この部分から、Jはすべてお見通しだということがなんとなくわかるかもしれません。

奇跡のコースは、それぞれの人にオーダーメードのものになっており、同じレッスンをやっていても、一見表れる変化は進捗度合いが異なるように感じるかもしれません。

しかし、どの人も、レッスン100の段階で見える世界と、レッスン200の段階で見える世界とは、全く次元の違うものになります。

奇跡のコースの学習者たちは、ほとんど、自我の取り消しというゆるしのプロセスを誤解してしまう部分があり、いとも簡単に不可思議な力がつくものだと考えてしまいます。

しかし、すべての人がまだ道の途中であり、ゴールにはいたっていないのです。

奇跡のコースは深い深いものです。

目覚めへのプロセスにおいて、途中になにがあろうとも、いつもJが見ていてくれているということが以下より感じていただけるかもしれません。


◆教師のためのマニュアルより◆

知覚することは学習の結果である。

事実、知覚することが学習だといえる、原因と結果は決して別々にはならないのだから。


神の教師たちはこの世界を信用している。

それというのもこの世界は、この世界が作り上げた(自我の)法則によって支配されているのではないことが分ってきたからである。


それはその人たちの内にありながらも、自分のものではあらざる御力によって支配されている。


これこそすべてのものを安全に護ってくれる御力。

この御力を通して神の教師たちは許された世界をながめるのである

このような御力をいったん経験したら、自分自身の取るに足らない(自我に基づいた)力などもう二度と信用することは不可能となる。

いったいだれが、偉大な鷲のような力が与えられているというのに、ちっぽけなスズメの翼で飛んでみようとなどするだろうか。


そしてだれが、神の賜物が目の前に置かれている時に、自我のみすぼらしい捧げ物のほうを信頼しようとするだろう。

何がその人たちに心を入れ替えようという気にさせるのだろうか。


A. 信用の発達過程

まずその人たちは「取り消しの時期」とでも呼べるときを過ごさなければならない。

これには必ずしも苦しみが伴わなくてもいいのだが、普通そうした体験になりがちだ。


まるでいろいろなものが取り上げられていくように思えるが、それはそうしたものに価値がないと気づいたにすぎないのだということが、最初はほとんど理解されない。

ものごとを違う見方で見ざるを得ない立場におかれた者でなければ』、どうして『その価値のなさ』を知覚できるだろうか。

その人はまだ、内面的に完全に転換できるところまできていない。

したがって、その計画は時には外面的な境遇の変化を必要とすることもある。

こうした変化はいつも役に立つ。

神の教師がそれだけ習ったとき、次の段階へと進むことになる。


つづいて、神の教師は「区別する時期」を通っていかなければならない。


これは、『やや難しいのが常』、なぜなら自分の生活のなかでの変化は、いつも役立つということが分ってきたので、今ではすべてのことを、それがもっと役に立つのかそれとも妨げになるのか、ということに基づいて決める必要がでてくるからである。

その人は、自分がいぜん大切にしていた(自我に基づいた)ものごとのほとんどとまでいかなくても、そのうちの多くが、『自分の習ったことを新しい状況がもちあがるにつれてそれに置き換えるという能力を、じゃまするだけだ』と分ってくる。

『本当に価値のないもの』を大切にしてきたために、『失うことや犠牲を恐れて』、習ったことから結論を導き出すことができずにいる。

『すべての物事や出来事や出会いや境遇が役に立つ』、ということを理解するには『かなりの学習を要する』。

そうしたことがどれほど役立つかという範囲でのみ、この錯覚の世界において、そうしたことにもある程度の真実味があるといってもいい。

「価値」ということばは、他のものには何一つあてはまらない。

三番目に神の教師が通り抜けなければならないところを、「放棄する時期」とよんでもいい。


もしこれを、『望ましいものをあきらめることだと解釈したなら、ものすごい葛藤を生じる』ことになるだろう。

このような苦悩を完全に免れる神の教師はほとんどいない。

しかしながら、『価値のあるものを価値のないものから選り出す』ということは、つぎの明白な一歩を取らない限り、何の意味もない。


だから、神の教師が自分自身にとって一番ためになることを、真理のために犠牲にするようにと頼まれているように感じそうな、二つのことが重なる段階がありそうだ。

その人は今のところ、そんな要求がいかに全く不可能なことか悟っていない。

このことはその人が『実際に価値のないものを本当に手放したときにのみ』分ってくる。

こうすることで、その人は悲しみを予想していたのに、かわりに気が楽になって嬉しくなったり、何かを自分に要求されていると思っていたのに、賜物を授けられていることがわかってくるのである。
ここで「腰を落ち着ける時期」がくる。これは静かなときで、神の教師はしばらく程よい平安のうちに一休みできる。

ここで自分の習ったことを統合することになる。

ここで自分の学習してきたことの転移価値が見えはじめる。

それの可能性は文字どおり驚異的であり、その神の教師はいまこそ自分の進んでいる過程において、そこから抜け出せる道が見えてきた時点にいる。

「自分の望まないものを手放し、自分の望むものを取っておくこと」そうした明白なことはなんと簡単なことだろう。


そしてなんと容易に行なえることか。

神の教師にはこうした休息するための時期が必要だ。

その人はまだ自分で思っているほど遠くまできてはいない。

しかし進む準備ができたら、力強い仲間たちと連れだって行くことになる。


今しばらく休んで、出発する前にみんなを集めている。ここからは一人で進むのではないのである。

次の段階はまさしく「心が動揺する時期」となる。

今となって、神の教師は何が大切で何が大切でないのか、自分には本当によく分ってはいなかったと判断せざるを得ない。


実際には今のところ、自分は価値のないものは望んでおらず、価値のあるものを望んでいるということが分っただけだ。

しかしその違いを自分に教えるのに、自分自身で区別しようとしたことは無意味だった。

『犠牲についての想念がその人自身の考え方の中心となっている』ので、それがその人に全く判断できなくさせている。

自分では、快く進んですることを学んだと思っているが、こんどは何のためにそうするのかが分っていないことが見えてくる

だからこれから、もしかするとそこに達するまでには、長い長い時間がかかるかもしれないが、その状態になんとか達しなければならない。

判断することを全面的にやめるようにしなければならないし、どのような境遇にあっても自分の本当に望むことだけを求めるようにならなければいけない。

こうした方向にむかうそれぞれの段階をかなり重点的に強化してなかったなら、確かに難しいことだといえるだろう。


そして最後に「達成したといえる時期」がある。

ここで、学習してきたことが統合される。

今こそ、以前はただの影にすぎないと見なされていたことが、堅実に習得したものとなり、平穏なときだけでなく、ありとあらゆる「緊急事態」においても頼りにできるようになる。

実のところ、平穏な状態がその結果であり、正直な学習と一貫性のある思考と十分な転移の成果である。

これが本当の平安といえる段階、ここにこそ天国の状態が余すところなく反映されているのだから。

ここからは天国への道は開いているし容易である。

事実、それはここにある。もし心がすでに平安に満たされているなら、いったいだれがどこかよそに「行こう」とするだろうか。

そしてだれが平穏をなにかもっと望ましいものに変えようとなどするだろうか。

いったい何がこれ以上に望ましいものとなり得るだろうか。