レッスン100を超え、あまりにもリアルレッスンが続いたり、自我に揺さぶりをかけられて、本当にレッスンができているのだろうか、落ちこぼれでJからも見放されるのではないかという自我のささやきが時に聞こえてくるかもしれません。
下記は、奇跡のコース「教師ためのマニュアル」から、
この部分から、Jはすべてお見通しだということがなんとなくわかるかもしれません。
奇跡のコースは、それぞれの人にオーダーメードのものになっており、同じレッスンをやっていても、一見表れる変化は進捗度合いが異なるように感じるかもしれません。
しかし、どの人も、レッスン100の段階で見える世界と、レッスン200の段階で見える世界とは、全く次元の違うものになります。
奇跡のコースの学習者たちは、ほとんど、自我の取り消しというゆるしのプロセスを誤解してしまう部分があり、いとも簡単に不可思議な力がつくものだと考えてしまいます。
しかし、すべての人がまだ道の途中であり、ゴールにはいたっていないのです。
奇跡のコースは深い深いものです。
目覚めへのプロセスにおいて、途中になにがあろうとも、いつもJが見ていてくれているということが以下より感じていただけるかもしれません。
◆教師のためのマニュアルより◆
知覚することは学習の結果である。
事実、知覚することが学習だといえる、
神の教師たちはこの世界を信用している。
それというのもこの世界は、この世界が作り上げた(自我の)
それはその人たちの内にありながらも、
これこそすべてのものを安全に護ってくれる御力。
この御力を通して神の教師たちは許された世界をながめるのである
このような御力をいったん経験したら、
いったいだれが、
そしてだれが、神の賜物が目の前に置かれている時に、
何がその人たちに心を入れ替えようという気にさせるのだろうか。
A. 信用の発達過程
まずその人たちは「取り消しの時期」
これには必ずしも苦しみが伴わなくてもいいのだが、
まるでいろいろなものが取り上げられていくように思えるが、
『
その人はまだ、内面的に完全に転換できるところまできていない。
したがって、
こうした変化はいつも役に立つ。
神の教師がそれだけ習ったとき、次の段階へと進むことになる。
つづいて、神の教師は「区別する時期」
これは、『やや難しいのが常』、
その人は、自分がいぜん大切にしていた(自我に基づいた)
『本当に価値のないもの』を大切にしてきたために、『
『すべての物事や出来事や出会いや境遇が役に立つ』、
そうしたことがどれほど役立つかという範囲でのみ、
「価値」ということばは、他のものには何一つあてはまらない。
三番目に神の教師が通り抜けなければならないところを、「
もしこれを、『望ましいものをあきらめることだと解釈したなら、
このような苦悩を完全に免れる神の教師はほとんどいない。
しかしながら、『価値のあるものを価値のないものから選り出す』
だから、神の教師が自分自身にとって一番ためになることを、
その人は今のところ、
このことはその人が『
こうすることで、その人は悲しみを予想していたのに、
ここで「腰を落ち着ける時期」がくる。これは静かなときで、
ここで自分の習ったことを統合することになる。
ここで自分の学習してきたことの転移価値が見えはじめる。
それの可能性は文字どおり驚異的であり、
「自分の望まないものを手放し、
そしてなんと容易に行なえることか。
神の教師にはこうした休息するための時期が必要だ。
その人はまだ自分で思っているほど遠くまできてはいない。
しかし進む準備ができたら、
今しばらく休んで、出発する前にみんなを集めている。
次の段階はまさしく「心が動揺する時期」となる。
今となって、神の教師は何が大切で何が大切でないのか、
実際には今のところ、自分は価値のないものは望んでおらず、
しかしその違いを自分に教えるのに、
『犠牲についての想念がその人自身の考え方の中心となっている』
自分では、快く進んですることを学んだと思っているが、
だからこれから、もしかするとそこに達するまでには、
判断することを全面的にやめるようにしなければならないし、
こうした方向にむかうそれぞれの段階をかなり重点的に強化してな
そして最後に「達成したといえる時期」がある。
ここで、学習してきたことが統合される。
今こそ、以前はただの影にすぎないと見なされていたことが、
実のところ、平穏な状態がその結果であり、
これが本当の平安といえる段階、
ここからは天国への道は開いているし容易である。
事実、それはここにある。
そしてだれが平穏をなにかもっと望ましいものに変えようとなどす
いったい何がこれ以上に望ましいものとなり得るだろうか。