2013年10月9日水曜日

スープと記憶

師の言葉より・・・。

自我というのは必ず過去からのパターンにしたがっています。

前世から引き継いだパターン、今生で築き上げてきたパターン、わたしたちは両方を持ち合わせて、その自我によって自動的に判断したり選択したりしていますが、あなたの自我のパターンを考えてみてもどれも過去が基準になっていることに気づくでしょう。

奇跡のコースを通して、わたしたちは自我が自分ではないことを知り、自我を選択しないことを習慣にしようとしていますが、それができたとき、つまりは過去というものに支配されないときには、どのように日々を生きることになるのでしょうか。

少し話が飛躍しますが、あの世とこの世の仕組みについて、その鍵が隠されています。

もし興味があれば、映画『スープ ~生まれ変わりの物語~』をご覧いただくと、あの世がどういった世界なのかというイメージがしやすいかもしれません。

あの世では、太陽のように一点からの光によって照らされるのではなくて空全体が明るいという点と服装がムームーのようなものを着ている点だけが異なりますが、その他の点においては、非常に正確にあの世が再現された映画となっており、死から次の生まで、あの世の様子は、正に映画の通りです。

本質的には死はありえませんが、境目を「死」「生」という言葉で表すと、生まれ変わりとは、こちらの世界に生を受けて一生を送っては死を迎え、あの世という中間地点でもこちらと同じように過ごし、時がくると(“いつ”なのかは選択できませんしわかりませんが)、次の生をうけて再びこちらに戻るというように、あちらの世界とこちらの世界を行き来している状態です。

奇跡のコースは、この行き来する旅そのものを終わらせて、神と完全に同体のところへ還ろう、自分が神の子であることを思いだそうとするひとつの手段です。

あちらの世界もこちらも世界も、どちらもがわたしたちが作りだした幻想であり、神が関与しているものではありません。

さて、わたしたちは、こちらの世界に生を受けるときには、一般的には、前世までの記憶をすべて失った状態で生まれてきます。

この記憶がない状態というのは、あの世(あちらの世界)で何度も何度も飲む機会に遭遇する非常においしそうな『忘却のスープ』が関係しています。

あちらの世界からこちらの世界に移動する(生まれ変わる)前に、あちらの世界ではこの忘却のスープを飲む機会がくり返し訪れ、これを飲むと、“前の転生(前世)”の記憶をすべて失って、真っ白な状態でこちらの世界に生まれてきます。

このブログを読まれた方々、映画『スープ』をご覧になった方々は、今生の記憶を持ち続けたいか白紙の状態でうまれたいのかを、あちらの世界でスープを飲むか飲まないかという選択をすることで自分で決めることができるでしょう。

ただ、あちらの世界でその特殊なスープの近くにいるとどうしても飲みたくなったり、行列ができていていいものかもしれないと思って、つい飲んでしまいます。

多くの人々はスープを飲み、前世までの記憶が白紙の状態で生まれます。

そして、生まれおちた家の家族や育つ環境から、この世界や自分自身について自我のパターンというプログラムを築き上げていきます。

また、前世の記憶そのものは失っているものの、魂レベルの断片的な記憶も自我として現れます。

このようにわたしたちは自我という過去のパターンを築き、持っています。

では、自我を選択しない、過去から自由な状態というのはどのような状態でしょうか。

あちらの世界でスープを飲んだ場合と飲まなかった場合を考えてみましょう。

スープを飲まなければ、前世からの記憶をすべて持っていますが、同時にそれは、過去の恨みや憎しみ、執着をすべて持っていることでもあります。

一方、スープを飲んだ場合は、生まれたての赤ちゃんのときには、一旦は記憶がすべてなくなって過去からまったく自由な状態にリセットされます。

まさに、スープを飲んだこの白紙の状態が、過去から自由な状態そのものであり、目覚めつづける(自我を解体する)とは、スープを飲んで転生したのと同様に、瞬間瞬間をまったく新しい物や人や体験として受けとることそのものなのです。

ですから、目覚めとは、今この瞬間を味わい尽くすことであり、すべてを過去の記憶からではなくて、ありのまま見つづけることなのです。

このときには、体験することすべてが新鮮で味わい尽くすことしかできず、人と会えばまるで初めて出逢ったように感じ、どの人といても分かちあうことが楽しくて仕方がないという状態になるかもしれません。

自我の解体が進むと、なんだか記憶力が悪くなったなとか、時間の感覚がわからない、執着がなくなるなどということも経験するかもしれませんが、これは、正に過去にとらわれない状態、過去から握りしめていたものを手放しつつあるということの表れです。

この生まれ変わりの仕組みを考えていくと、わたしたちに死はありませんが、今生の物語そのものには終わりがあり、今守りたいと思っているもの、執着しているもの、特別だと考えたくなる人や物や出来事、これらには終わりがあります。

こちらの世界でぎゅっと握りしめているものは砂上の城と同じです。

そして、わたしたちはこの幻想から目覚めきるということをしない限りは、何千年も毎日毎日、砂上の城を作っては壊しをくり返しつづけます。

この終わりのないように見える旅を終わらせることができるひとつの希望、それが奇跡のコースなのです。