2013年10月7日月曜日

評価

師の言葉より・・・。

わたしたちには、多かれ少なかれ、予測不能なことは嫌い、なんでも把握したいというコントロール欲求があります。

コントロール欲求とは、①過去に体験したことがないことは嫌だ(予測不能なことは嫌)、②自我の価値観で制御できることしか嫌だというパターンで、過去に経験したことであれば予測ができて安心、自分で(自我で)制御できれば安心というあてにならない安心感を見いだそうとする自我の試みです。

②について、たとえば、人からの評価というものもコントロール欲求のひとつです。

仕事や家庭、友人関係などで、人目を気にしたり、評価を気にしたりすることがあるでしょうが、それは、相手が自分をどう思うかという、本来わたしたちが立ち入れない相手の自由や問題をコントロールしたいという欲求なのです。

手紙をイメージしてみると、

1.自分でできるのは手紙を書いてポストに投函することだけ。
2.手紙が届くか届かないかは郵便局の仕事。
3.更に、手紙を読むか読まないか、いつ読むか、返事を書くか書かないかは相手の自由。

という流れになります。

わたしたちができるのは1までで、ここが本質的なわたしたちだとすると、自我というのは、2や3の郵便局も相手の自由も飛び越えて、相手に手紙を読ませようとする、つまりは相手をコントロールしようとするということをやっているのです。

このコントロール欲求は、

1.自我が自分の価値は他人の評価によって左右されてしまうという恐れから、相手にこう思って  
  ほしくない、批判や評価されたくないと思う。(=恐れ)
2.他人からよく思われなければ嫌だ。他人はどう思うだろうかという基準で行動。
  (=コントロール欲求)
3.相手の範疇のことまで自分のコントロールに入れたくなり、相手がコントロールから外れること
  をゆるさない。

というようなパターンがあります。

しかし、真実はたったひとつ、「わたしたちは神の子であり、絶対的に傷つけられえない自己」なので、相手がよく思おうが悪く思おうが相手の自由と問題であり、それによってわたしたちが傷つけられることやわたしたちの価値が上下することは決してないのです。

相手がわたしたちにくだす判断や評価は相手の自我の仕事であって、自我ではなく聖霊の声を選択すると決めたのなら、わたしたちにできる仕事はこの部分の自我の錯誤に対して「ゆるす」ことのみです。

相手をゆるすのではなく、自分の錯誤をゆるして解除したとき、傷つけられえない自己という本当の強さを信頼することができるのです。