自我はいつも神と戦おう(挑戦しよう)とします。
自我は自我こそが神だと思い、なんでもコントロールしたいのです。
そうしなければ存在できなくなるという恐怖から、自我は勝ち目のない戦いを続けようとします。
あなたの中にも、予測不能なことや変化に対する恐怖、つまり、コントロールできないことへの恐れがきっとあるでしょう。
毎日のレッスンに対して、言っている意味がわからないとか理解できないということを感じているかもしれません。
でも、自我から目覚めきっていないあなたがレッスンを理解することは不可能なのです。
あなたは今はまだ神(や本当の魂の姿)を忘れてしまっています。
つまり、なにも知らない状態なのです。
なにも知らないのに、神がどんな視点から言葉を届けているのか、神の世界がどのようなものか、どうやって知れますか。
神の世界をみたときに、「このとてつもなさが神なのね」と初めて知ることになるのです。
だから、レッスンは理解できなくて当然なのです。
知らないのですから。
ただ、コントロールしたいという自我により、レッスンを理解できないこと=コントロール(把握)できないことにもどかしさや不満を感じるかもしれません。
でも、自我はあなたではないですし、ぎゅっと握りしめている自我を手放してもあなたは消えません。
自我による戦いをやめて、わからないんだと白旗をあげてごらんなさい。
まな板の鯉になりきりなさい。
わからないというところに立ったときには、聖霊(J)が手を差しのべて助けることができるのだから。
レッスンは自我の思う通りに理解ができず(理解というコントロールができず)、レッスンをやることそのものが現実をコントロールしたいという自我を解体していくのです。
レッスンの考えを信じる必要もなく、受け容れる必要もなく、歓迎する必要さえもありません。
You need not believe the ideas, you need not accept them, and you need not even welcom them.
理解できなくても大丈夫。
ただ、わかりたいんだという強い思いは持ちつづけなさい。