☆翻訳者より☆
レッスン46も、とても、というか、とてつもなく深いレッスンです。
「ゆるし」・・・言葉にすれば三文字ですが、これができたなら、私たちはずいぶん自由になれるはずなのに、ゆるせない。
場合によっては、ゆるしてたまるかぐらいに思っている感情のひとつやふたつはあるはずです。
「ゆるし」の反対語は、「うらみ」かもしれません。
人によっては、ゆるせないのは、父親か母親のどちらかもしくは両親かもしれません。
ゆるせないのは、自分を深く深く傷つけたあいつやあいつらかもしれません。
ゆるせないのは、あの時から自分の人生を無茶苦茶にした「あの出来事」かもしれません。
ゆるせないのは、自分自身かもしれません。
ゆるせないのは、運命や人生かもしれません。
ゆるせないのも辛くて、どれだけゆるそうと思っても、自我でゆるそうなどと思ってみても、ゆるそうとしたそばから、「絶対ゆるしてたまるか」という思いが沸いてきます。
「ゆるし」は、自我では絶対にできません。
なぜなら自我には、「これで充分」という感覚はないからです。ゆるしたと思っていることも、心の奥底では、ぐつぐつと静かに煮えたぎる静かな炎があり、それは消えることはありません。
今日のレッスンは、この「ゆるし」という人生最大のテーマのひとつを扱っています。
そして、ゆるしは私たちの自我でするものではなく、自我ではとてもゆるせないゆるしがたいものを、神の愛の力を借りて、その神の力を持ってして、ゆるし手放す練習です。
けして、自分でゆるそうとするのではなく、ゆるしは神の愛そのものにおまかせするという練習です。
このレッスンをしてみると、自分の中にいかにゆるせていない相手や出来事や自分自身があるかに驚くかもしれません。
ゆるしても、ゆるしても、どんどんゆるせない気持ちが沸いてくるかもしれません。
どれだけゆるそうとしても自我でゆるそうという意識が少しでもあるならゆるせません。
ゆるしが起こるためには、そのゆるしそのものを、神の愛の力で、それによって溶かしていくしかない、そういうレッスンでもあります。
本当に深い深いレッスンです。
ゆるせなかったものをゆるそうするということが起こった時、自分を縛っていた鎖がほどけ、その時に自分の人生にも知らず知らず縛っていた鎖がほどけます。
その時、静かに、でも確実に、自分の人生の何かが大きく変わります。
レッスン46はたった1日、この日しかできません。
この1日で、どれだけできるか、またどれだけ自我の抵抗にあうかわかりません。
けれど、人生の中の1日を、今日のレッスンに全力で「賭けてみる」価値はあるかもしれません。