2013年9月15日日曜日

Lesson48について

☆翻訳者より☆

人生を生きていれば、時に心騒ぐようないろんな事が起こります。

それは、外側の人や出来事や状況に自我が反応してしまうことかもしれません。

あるいは、内側で、ふと自分の存在そのものや自分の人生を頼りなく思えたり、訳もなく孤独や不安や自信のなさのような形で自我に飲み込まれそうになったりする、そんな時だってあると思います。

これを書いている私も、そろりそろりと自我がやってきて、自我の思い込みや幻想に取り込まれそうになる時はしょっちゅうあります(笑)

自我が仕掛けるワナはとても巧妙で、そしてあたかもそれが事実であるかのように錯覚させるのが得意です。

今日のレッスンは、回数も指定されておらず、言葉もシンプルで、どれだけの頻度でどれだけの深さで練習をするかはすべて私たちにまかされている自由なレッスンです。

こういうレッスンは、自我にとっては格好の付け入る先のあるチャンスがいっぱいあります。

自我とは、あなたの自我だけでなく、私の自我も、他の人たちの自我も、等しく怖れや不安や被害者意識、特別化(自分だけはという感覚)、不足感などがその特質です。

そして、それは時に、皮肉屋だったり、醒めた目で諦めるようなスタンスという形で私たちを騙したりすることもあります。

《怖れるべきものは何もありません》と私たちがレッスンを繰り返す時、怖れがその特質である自我は、「そんなことはない。人生なんて怖れることばかり起こるのだから」と私たちを自我に誘惑しようとしたり、「なにを綺麗事ばかり言ってんだ」と今日の神からの言葉をひねて、皮肉屋を気取って、私たちを神から離れさせて、自我の幻想へと連れていこうとします。

このレッスンを私たちに伝えている神は「今日の新しい見方は事実をただ述べているだけです。」とキッパリ言っています。

「それは幻想を信じている人たちにとっては事実ではありませんが、幻想は真実ではありません。」と強く私たちに語りかけています。

「真実においては何も怖れるべきものはありません。これを認識することは非常に易しいことです。

しかし、幻想が本当であってほしいと思っている人々にとっては非常に難しいことです。」というように、私たちの、「自我という幻想をあたかも本当であるかのように思い込み癖」もお見通しです。

毎日毎日、レッスンを通じて繰り返し、自我は私たちそのものの本当の姿ではなく幻想であり、私たちの本質は神の一部である神聖な存在であることを思い出すために、私たちはこの地味で地道なレッスンをやってきたんです。

それでも、まだ気を抜くと自我のワナに取り込まれてしまう時もあるかもしれません。

けれど、50日前の、レッスンをまだ始めていないころの自分とは違うはずです。

この1日も、偽りの自己である自我は「人生は怖れることでいっぱいだ」と私たちを誘惑し、怖れや攻撃や被害者意識や不足感に私たちを連れだそうとするかもしれません。

あたかもそれが事実であるかのように騙そうとするでしょう。

けれど、その自我の幻想を見破るために、自我の誘惑に乗らないために、自我が怖れに連れていこうとする力以上に「怖れるものはなにもない」を繰り返していきましょう。

綺麗事ではなく、あなたが心の中で今日のレッスンをするたび、それはあなただけの孤独な戦いではなく、聖霊が、神が、あなたが自我に騙されそうになるのを救ってくれるその力を感じる時があります。