☆翻訳者より☆
Lesson 187 は何度も読み返さないとその意味さえもわからない深いレッスンです。
ちなみに百合という花がよく出てきますが、ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、聖書的な表現で「純潔さ(罪の無さ)」の比喩として使われています。
*(ブログ作成者は、メールでレッスンとテキストを受けとっているため、原文のまま転載してあります。)
*(この間のテキストメールは、7章6~9、14章11~15章1)
明日から三日間はレッスンをお休みさせていただき、テキストをお送りさせていただきます。
今回、レッスンを三日間お休みさせていただくのは、単なるお休みということを意図したものではありません。
Lesson 185・186・187はとても深いレッスンで、一度だけで深いところまで染み込ませるのは難しいかと思います。
なので、出来ればこの三日間の間に各自で復習されるといいかと思います。
もちろん、どれくらいの頻度でどれくらいの時間、どれくらいの重要性を感じてやるやらないは、すべて自分の判断に委ねられています。
お気づきの通り、レッスンは365の折り返しを過ぎています。
どうか、レッスンから受け取れるものはすべて受け取り尽くしていただけたらなとささやかながら思っています。
今、受け取れているか受け取れていないか、それを自我で判断できるものではありません。
なぜなら最終的に受けとることになるものは、自我の理解や想定を遥かに越えているものだからです。
現段階で、受け取れている、あるいは受け取れていない、と判断しようとするならば、それは自我の価値判断をしようとしている罠に入ることであり、大切なことは、「なんとしてでも受け取り尽くしたい」とひとつひとつのレッスンをないがしろにせず、理解出来ても出来なくてもなんとか食らいついてうまずたゆまずやろうとすることだと思います。