2013年11月7日木曜日

復習 Lesson 46 について

☆翻訳者より☆

『投影を癒す』

「ゆるし」・・・

言葉にすれば三文字ですが、これができたなら、私たちはずいぶん自由になれるはずなのに、ゆるせない。

私たちは、ゆるしてたまるかぐらいに思っている感情のひとつやふたつはあるはずです。

「ゆるし」の反対語は、「うらみ」かもしれません。

人によっては、ゆるせないのは、父親か母親やどちらかもしくは両親かもしれません。

ゆるせないのは、自分をあの時に深く深く傷つけたあいつやあいつらかもしれません。

ゆるせないのは、自分の人生を無茶苦茶にした「あの出来事」かもしれません。

ゆるせないのは、自分自身かもしれません。

ゆるせないのは、運命や人生かもしれません。

ゆるせないのも辛くて、どれだけゆるそうと思っても、自我でゆるそうなどと思ってみても、ゆるそうとしたそばから、「絶対ゆるしてたまるか」という思いが沸いてきます。

「ゆるし」は、自我では絶対にできません。

なぜなら自我には、「これで充分」という感覚はないからです。

自我が信じている信念は、「私の心が傷ついたのは、誰かや何かの出来事である」。

自我でゆるしたと思っていることも、心の奥底では、ぐつぐつと静かに煮えたぎる静かな怒りや恨みの炎があり、それは消えることはありません。

レッスン46は、この「ゆるし」という自我が望まないことのひとつを扱っています。

このレッスンを自我でやろうとしてみると、自分の中にいかにゆるせていない相手や出来事や自分自身があるかに驚いたりします。

自我でゆるそうとしても、どんどんゆるせない気持ちが沸いてきたりします。

どれだけゆるそうとしても、自我でゆるそうという意識が少しでもあるなら、どこか心の奥底に納得いってない部分をみつけてしまう。

自我的に世界を見るなら、この人生とは理不尽なことばかりで、ゆるしてもゆるしても、ゆるせない(と思っている)悪いやつらは枕を高くしてのうのうと寝ているのに、なぜゆるさなければならなのだというもの。

しかし、奇跡のコース的なゆるしとは、自我で、すなわち自分でゆるすというものではそもそもない。

私たちが世界を見ていると思っているその世界とは、世界のありのままの在りようを在るがまま観ているのではなく、自我の無意識が投影した世界しか見ていない。

私たちが罪だと見ているものは、そもそもからして自我の奥底にある「大いなる存在から分離していしまったことに対する罪悪感」 を誰かや何かに投影したもの。

もちろん、その自我そのものは、私たち自身でさえない。

レッスン46のトレーニングでは、自我ではとてもゆるせないゆるしがたいもの(自我が投影したもの)を、神の愛の力を借りて、その神の力を持ってして、(自我の投影しtものを)ゆるし手放す練習です。

けして、自我でゆるそうとするのではなく、その人や出来事を自分の人生に登場させ、そしてその役割を演じさせ、そこから被害者・犠牲者というドラマを作った自我の投影を、神の愛そのものによって取り消すという自我のゆるしのやり方とは違う見方のトレーニング。

奇跡のコース的なゆるしが起こるために、その出来事や人そのものを作り出した自我の投影、神の愛の力で、それによって溶かしていく、そういうレッスンでもあります。

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