2013年11月7日木曜日

復習 Lesson 31 について

☆翻訳者より☆

『自我が見せている世界の犠牲者にならないということ』

レッスン31にある《私は、私が見ている世界の犠牲者ではありません。》という言霊も、私たちの人生を本質的に変革する力のある言霊だと思います。

自我としての見方は、「私は、私が見ている世界の犠牲者である」という強固な信念を無意識に持っています。

ドラマ半沢直樹に続くドラマとして、木村拓哉さん主演の安堂ロイドというドラマが同じ時間枠で放映されています。

半沢直樹は銀行を舞台とした生々しいドラマであったのに対して、安堂ロイドは100年後の世界から送られてきたアンドロイドが主役のSFドラマであり、全く違うドラマに見えます。

しかし、自我に訴えようとするストーリー展開という点では2つのドラマは全く同じともいえるかもしれません。

それは、主人公が何らかの大きな巨悪の力に攻撃され続け、それに孤高の戦いを挑む、そして正義は勝つというドラマの根幹に流れる設定です。

主人公が悪役や悪の組織にやられそうになるたびに、自我は主人公に感情移入し、主人公が反撃すると自我はなんともいえないスカッとしたカタルシスを味わったりして更に感情移入していきます。

自我はこうした勧善懲悪的なストーリー展開が大好きで、主人公に投影し、感情移入していきます。

自我的な見方である「攻撃される」だから「攻撃し返す」という『無意識の攻撃性』は、『無意識の被害者意識』に繋がっています。

主人公を苦しめる悪役や悪の組織の相手は、どいつもこいつも卑劣で醜くく憎たらしい存在として描かれなくてはならず、そんな酷い奴らに主人公は次々と攻撃されたり、理不尽なことに苦しめられながらも、立ち向かうという設定は、自我的にはとても投影しやすい設定です。

なぜなら、自分の目の前の人生にも、被害者意識を感じさせる理不尽な出来事や人間関係があり、現実の生活では、必ずしも「敵」に対して正面から戦って最後は勝つわけではない。

しかし、ドラマなら、主人公を通して、被害者が加害者の理不尽な攻撃に対して正面きって反撃し、懲らしめるというストーリーに無意識の願望を投影する事ができます。

自我は、それが思い通りにならない人生だと信じこんであり、その根拠は、これまでの人生経験で出会った出来事や人、そして今の毎日の生活の中に自分自身を理不尽に耐えている被害者と捉えているからです。

それはあたかも、現実であり、世界であり、自分の人生だと信じこんでいるからです。
テレビドラマが視聴率を取るためには、この投影をどれだけ刺激できるかが一つのポイントかもしれません

レッスン31の《私は、私が見ている世界の犠牲者ではありません。》という言霊は、こうした私たちの自我の無意識の被害者意識を、真っ向からそれは事実ではないと言い切り、全く正反対の見方をトレーニングさせようとします。

奇跡のコースは一貫して、私たちという存在は、何度も何度も、私たちは「けして傷けられえない存在」としてしか存在していないと伝えています。

奇跡のコースのレッスンにおいても、様々な言霊を使い、繰り返し私たちがそれを「思い出せる」ようにトレーニングが提示されています。

しかし、私たちが自我の部分でその言霊を見ると、どこかでそれを信用できなかったり、そんなことはないと否定したくなったりすることもあるかもしれません。

もちろん、レッスンの一番最初で伝えられているように、必ずしも信じる必要も無理に受け入れる必要もないと伝えられています。

受け入れるとは、100%それでしかありえないと認めて確信していることであり、99%は受け入れているが1%は否定や疑いがあるというのは受け入れていることではないということ。

レッスンは、私たちがまだ自我という見方で自分や世界を見ているうちは、本当の意味で確かにそうであるしかないと確信出来ないことを百も承知で、そういう私たちが自我を手放して本当の真実を観る事ができた時には「確かにそれしかありえない」と真実を体験できる能力を取り戻せるためのトレーニングを提示してくれています。

《私は、私が見ている世界の犠牲者ではありません。》というレッスンの言霊は、私たちの魂の深い部分にちゃんと残り、その後に続くレッスンを続けていった時に、それしかありえないという確信に変ります。

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