☆翻訳者より☆
『攻撃性の投影について』
奇跡のコースでは、私たちはそもそもからして「
けして傷けられえない存在」として存在していると伝えています。
しかし、私たちの自我がら見た自分自身に対する見方は、
これとは反対の誤った観念で自分自身を見てます。
すなわち、私たちは「傷けらうる存在」が可能であるとして、
自分を守らなければならない「やらなければやられる」
と無意識で思っており、
その結果として無意識の攻撃性を持っています。
2013年の夏は、半沢直樹というドラマがヒットし、
視聴率42.2%
という平成に入ってからの最高視聴率を獲得しました。(
関西地区における瞬間視聴率では50%
越えという脅威的な視聴率を記録)
「やられたらやり返す。倍返しだ!」という決め台詞と共に、
勧善懲悪的なストーリー展開。
フィクションだとわかりつつも、多くの人の自我的な「
攻撃される」だから「攻撃し返す」
という現実には必ずしも叶わないこともある『無意識の攻撃性』
をドラマに投影でき、
カルタシス的な興奮を覚えた方も多くいらっしゃったのかもしれま
せん。(もちろん原作の緻密なストーリーの秀逸さや、
優れた演技や演出など様々な魅力があったのでしょう)
さて、奇跡のコースのレッスン26の《私の攻撃的な思いは、
傷つけられえない自分を攻撃しています》という言葉は、自我の「
攻撃的な思い」(=相手が間違っているなら復讐しても当然)
とは、「自分は傷つけられうる存在」として心の中で信じており、
それは自分自身を攻撃していることと同じであると伝えています。
世の中の多くの人の感心をさらった『半沢直樹』
とは真逆の見方です。
レッスンは毎度のことながら、
理解するには何回も読み返さないとその深さがわかりません。
「あなたは、あなたの存在そのものは、他人から、
押し寄せる出来事から、人生そのものから・・・
本当は傷けられえないほど尊い存在だ」
と奇跡のコースは繰り返し伝えています。
これは、慰めでもなく、現実を無視した能天気な理想論でもなく、
徹底的に超現実的な内容です。
しかし、一方で、「自我とは自分自身の本質などでは断じてない」
ということを理解していないと、
とても厳しい内容に感じられることを含んでいます。
私たちが自我の見方として、
人や出来事から攻撃することが可能と信じているなら、
私たちも人や出来事から攻撃されることも可能という影響力を信じ
ていることになるとレッスンは伝えています。
この攻撃する・
攻撃されるという自我の信念は必ずワンセットであり、
まず始めに攻撃するという思いが存在しているとレッスン23では
伝えています。
「攻撃する・攻撃される」という自我の思いは、
映写機のフィルムのように自我の奥深くにあり、
目の前の出来事や人をスクリーンとして私たちが現実と呼んでいる
ものに投影されます。
無意識の中にフィルムがなければ、
私たちが現実と呼んでいるスクリーンに投影することはできません
。
すなわち、攻撃されうるような人や出来事は、
自我の無意識のフィルムに攻撃がなければ、
スクリーンの中に投影(写し出される)される事ができません。
逆に言えば、無意識の中に「攻撃的な思い」
という自我の映写機のフィルムのようなものを、
私たちの目の前の人や出来事に投影し、
それを怖れたり怒ったりするのは、
自我の自作自演のドラマを許容しているということになります。
私たちはそもそもからして「けして傷けられえない存在」
として存在しているということを受け入れるということは、
投影のもととなる自我の映写機のフィルムそのものを棄てて取り消
すということになります。
レッスン26のトレーニング内容は以下の感じです。
「私は について心配しています。」
↓
あなたの心配の原因となっている結末を具体的思い浮かべて言いま
す。
↓
「私は が起こることを恐れています。」
「私は が起こることを心配しています。」
「私は が起こることを不安に思っています。」
「私は が起こることを危惧しています。」
「私は が起こることを嫌だと怖れています。」
(5つや6つの、あなたを悩ませる最悪の可能性が出てくるはず)
↓
次のことを自分自身に向かって言います。
「そんな思いは私自身に対する攻撃です。」
今日のレッスンは1回2分×6回とされています。
毎度のことながら、深い深いレッスンです。
レッスン26が伝えている内容を、レッスンの説明文を何度も読み返すとともに、実際の練習を行って受け取り尽くすことは、あとに続く「奇跡のコース的なゆるし」を実践する能力を具体的に身につけて、本当の現実としての「奇跡を目撃する」ことにつながっていきます。
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