2013年11月21日木曜日

Lesson 125 について

☆翻訳者より☆

レッスン125の練習は、レッスン124の延長線上にあり、瞑想ワークとなっています。

10分という時間を1日に3回取りますが、昨日と同じく最初は自我のおしゃべりがいろいろ出てくる場合もあるかもしれません。しかし、頭の中の自我の話す声を通り抜けていきます。


今日は「神の声」とありますが、神の声とは必ずしも(というよりかなりの確率で)何らかの言葉が来るとは限らないことに気をつけてください。

ただ暖かい感覚が来たり、なかなか赦せない誰かや自分を赦してみようとなぜかふと思えるという感覚がふと来たり、なにかわからない安心感という感覚が来ると、いう形の「声」もあります。

神の声を「自我で勝手にイメージしてしまう」と、それこそ自我が自作自演の芝居を始めて自我のおしゃべりの時間になってしまうこともあります。

例えば、チャネリングのような長々としたメッセージであることはまずほとんどありません。

聞こえる場合も、多くは一瞬のほんの瞬間の「あれっ!?」っていうほどシンプル過ぎる「たった一言」が多いはずです。

(あと命令系が聞こえたような場合はまずもって自我の声です。聖霊が私たちに命令したり強制したりすることは、通常あり得ません。)

「声を聞きたい」と自我的に「期待」したいと思うあまり、練習時間に自我の思考を休めるよりも、「まだかまだか」と「いつ聞こえる?」「まだ聞こえない!」という自我の声に集中してしまうこともあり得ます。

あるいは「聞こえたならレッスンは進んでいると安心できるし、聞こえないならやっぱり自分はレッスンがうまく進んでいない」という自我の評価や不安感を埋め合わせたいという自我的な願望も、声を邪魔します。

むしろ、レッスン124の、「ある種の時間が止まったような不思議な感覚」や「よくわからない静けさ」やが訪れる瞬間のリラックスを待つ事が大切です。

聞けるかどうか、それを気にしずぎることはなく、聞こうと焦ることなく、ただ自我のおしゃべりを鎮めて、ただリラックスします。

たとえ、何か聞こえなくとも、ただ10分を今日は自我のおしゃべりを鎮めるということに意識を保ち続ければ、ふとした瞬間に来る時は来るし来ない時も10分の瞑想のリラックスを味わえばいいのだ、くらいの感覚がちょうどいいです。

これも、朝と夜でいえば、朝起き抜け直後が一番やりやすいかもしれません。

具体的な声を聞くことより、自我のおしゃべりを鎮めたリラックスした時間を味わうという事のほうが大切な場合もあります。

聖霊もその自我から離れた一瞬の瞬間をじっと気長に待ってくれています。

仕事やご予定がある場合は、朝はゆっくりできずに夜にまとめて連続でやるなどといったことになってしまうこともあるかもしれませんが、その場合はお風呂あとなどリラックスできる時間を利用するとやりやすいです。

今日、聞こえても聞こえなくても、「どっちにせよ、こだわらないようにする」事が大切だと思います。

本当に大切な事は、「自我の声以外の声を聞きたい」という、自我を離れた自分の本質を選択しようという持続的な意志です。

まだまだ、先のレッスンがあり、今日聞こえる聞こえないを越えた、遥か先のレベルにちゃんと私たちは向かっています。