2013年11月17日日曜日

Lesson 121 について

☆翻訳者より☆

レッスン121はさらに次元が上がっています。

この奇跡のコースが奇跡のコースたる由縁は、学ぼうとする人に本当の奇跡に至る道と、その奇跡を自分で観て、体験する力をつけさせるトレーニングだというところなのだと思います。

神がどうだと言われても、自分で神を観て体験しなければ、その言われた事を信じるか信じないかしか選択肢はありません。

奇跡がこうだと言われても、自分で奇跡を観て体験しなければ、その言われたた事を信じるか、もしくは信じないかしか選択肢はありません。

宗教の限界は、その信じるか信じないかの2つの選択肢しかないというところにあるのかもしれません。

(宗教を否定しているのではありません。限界があることをただ限界があると述べているだけです。)

奇跡のコースは、私たちに真実はこえだと伝えるだけでなく、私たち自身が真実を自分で観て、自分で体験する力をつけるトレーニングを提供しています。

自分で観て、体験した真実は、信じるか信じないという次元のレベルではありません。

ただの既成事実を認めることに過ぎません。

私たちは、レッスンを通じて、その体験する力をつけれるようトレーニングしています。

そして奇跡のコースが奇跡のコースたる由縁は、レッスンは必ず、私たち一人一人に対するオーダーメイドのレッスンであるということです。

さて、レッスン121は『ゆるし』についてのレッスンです。

レッスン121も、あなたに対する『あなただけ』のオーダーメイドレッスンだという事がわかるでしょう。

『あなた』に対する『あなた』だけの、『あなた』にしか出来ないレッスンが、今日のレッスンです。

このレッスンをあなたに伝えてているJが、今日まさにあなたに伝えたい事が今日のレッスンです。

今日のレッスンに10分という時間をとり、ゆるしのトレーニングをしようとする時、ちゃんとレッスンの題材となる人の顔が浮かぶはずです。

あなたがムカつく、あるいはイラっとさせる、あるいは嫌いな、あの人の顔を。
自我は、ゆるしたくないと騒ぐかもしれません。

「自分が正しく、相手が間違っている」と自我が主張するかもしれません。

「相手が変わるべきで、自分が変わる必要などない」と自我らしいお馴染みのパターンに感情が逃げようとするかもしれません。

頭の中で、何回も何回も否定し、批判し責めたその人に、今日のレッスンの協力者になってもらいます。

私たちは、自分(=自我)で、嫌いな人をゆるすことなんてできません。

私たちの自我がゆるすのではなく、ゆるしの光を知覚させてくれるのは、あくまでも聖霊やJであり、ゆるしたくないという私たちの自我を越える(=自我を取り消す)力を彼らにお借りします。

レッスンは、自我を越えた真の世界と自分を観るためのものです。

レッスンに自我を持ち込むものではなく、レッスンを通して自我を解体するものです。

何があっても、今日のレッスンを朝と夜にやりきりましょう。

何度もお伝えしますが、レッスンはあなた1人でやる訳ではなく、後ろでJが、聖霊が、ちゃんと見守ってくれています。

光は自分で作るものでもイメージするものでもありません。

聖霊、もしくはJに、光を知覚できるように頼み、力を借ります。

自我とはまさに牢獄で、その自我の牢獄から抜け出すためにJや聖霊は力を貸してくれます。

自我の干渉から逃れるために、レッスンをやる前に、今日のレッスンの説明文を何回も読み返すといいかもしれません。

そして1日を通しての今日のトレーニングは、『ゆるしは幸せの鍵です。私は、自分が不滅ではない存在であり、過ちを犯しがちな存在であり、罪に満ちた存在であるという(自我の)夢から目を覚まし、完璧な「神の子」であるということを知ります。』という言葉を一時間に一度は思い出すというトレーニングです。

これについても、可能な限り、文章の内容を頭に入れて、わざわざいちいち見なくてもスラスラ思い出せるというところまで記憶し、毎時間思い出すようにすると効果的です。

今日は(今日も)とてつもなく深く、とてつもなく大事なレッスンです。

どうか今日のレッスンから受け取り尽くせるだけ受け取り尽くせますように。