☆翻訳者より☆
レッスン24の文章も、繰り返し読まないとなかなか理解しにくいレッスンです。
また、レッスンの初めの方の文章は、相変わらずかなり容赦ないです。
「あなたは、いかなる状況が生じても、あなたを幸せにする結末を理解することはありません。したがって、あなたには適切な行動へと導いてくれる指針はなく、結果を価値判断するための方法もありません。あなたが何をするかは、(目の前に起こる)状況へのあなたの認識によって決まりますが、その認識が間違っているのです。」
手キビシイ神からのお言葉です。
自我が少しだけ「そ、そ、そんなことないもんね!」と抵抗したくなる場合もあるかもしれません。
さて、レッスンの内容の通り、私達は、無茶な要求を現実に対してつきつけています。
たとえばの例で、仕事について考えてみると・・・・
「(仕事)が関係する状況において、私は(収入がそれなりにいいこと)と(やりがいがあること)と(職場の人間関係がいいこと)と(上司も優しく教えてくれること)と(通勤が楽なこと)と(職場が将来性があること)と(残業などが少なくてハードでないこと)と(才能が生かせること)と(フ゜ライヘ゛ートも大切に出きる環境)と(年に数回はまとまった休暇が取れること)と(転勤がないこと)と(できれば素敵な異性もいたりなんかすることがあること)が起こることを望みます。」
結構、無茶な要求を現実に対してつきつけ、またそれが叶わない(っていうか、叶わないような要求を心がいっぱいしてるんですが)と不満に思ったり、ため息ついたり、自分を嘆いたり、ストレスを溜めたり・・・・。
ちょっと極端な例という形でたとえを出してみましたが、仕事であれ、家族関係であれ、人間関係であれ、恋人・ハ゜ートナーであれ、自分自身についてであれ、はては経済的問題、健康問題、衣食住、その他について、自我から来るさまざまな複数の要求を現実に、望む結果に・・・求めようとしてしまうことはあるかもしれません。
つまり、現実に対して、人に対して、状況に対して、未来に対して、いくつものこうあって欲しいという「コントロール欲求」があります。
あれもこれも「こうあって欲しい」「こうあって欲しくない」ばかりだけど、本当は何を求めているのか・・・。
私たちはいったい何がどうあれば幸せなのか・・・。
いったい何がどうあれば、本当に心の底から満たされるのか・・・。
何がどうあれば、いつかこの人生が終わるその時に、「ああ、本当にいい人生だったなぁ」と感動と感謝の涙を流して天国に旅立っていけるのか・・・。
けれど、奇跡のような確率で、この世に生を受けている私たちは、この人生そのものに毎瞬毎瞬魂が震えるように感動し、まさに命を輝かせて生きる事ができるのでしょうか?
「最善」とは単なる綺麗事の話ではなく、徹底的に現実的な話です。
「私はこの状況において私自身の最善の利益を知覚していません。」
「自分にとっての最善の利益」とは何でしょう…。
今日のレッスンは、自分の心を返り見て、その上で、自我に基づく見方や感情は「最善の利益を知覚していない」という位置を明確にするレッスンです。
逆に言えば、このレッスンを私たちに授けている側の神は、レッスンを続けていった未来の私たちひとりひとりに「最善の利益をもたらす」確信があるということです。
まず、ここに立つことが、後に続くレッスンをとてつもなく効果的にする重要なホ゜イントになります。
レッスンの途中で力強くこう宣言されています。
「今日の新しい見方は、(真のスヒ゜リチュアルな)学びが起こり始めるようにあなたの心を開く方向に向かう一歩です。」
このレッスンをあなたに与えている神からの慈愛に溢れた言葉です。
この先レッスン28を越えたあたりから、レッスンの内容がガラリと変わります。
この地味で地道なレッスンを始めて、今もうすでに何らかの変化を感じている方もおられるでしょう。
そして、今はただ淡々とレッスンをして、特に何も変化は感じられない方も、その頃から確かに変化を感じるはずです。