師の言葉より・・・。
わたしたちは、神から引き継いでいるとてつもない「創造力」をもっています。
自我(怖れ)による思い込みの中で創造する力を使った時には、必ず不足感につながりますが、そうした“足りない”という現実を永遠に創造しつづけることもできます。
一方、天の意志(天意)のままに創造することもでき、自分を単なるパイプとして創造力を自分の中に流した時には、本質が現れ、結果としてやすらぎや安心感につながります。
いずれにしても、わたしたちはいつも、この創造する力を使いたいと思っています。
なにかを創造しようと思ってうまくいかないときは自我に基づいて作ろうとしており(←こうあってほしい、など)、自分が単なるパイプになって(神の意図と一致して)創造力を流しているときは、いとも簡単に現実に反映させることができます。
簡単な例を・・・。
「神の使者」にもある通り、宇宙は拡大を続けており、エネルギーを出して表現したがっています。
わたしたちはこの3次元世界に出たがっているエネルギーを、(自分でやるんだというのではなく)自分を単なるパイプとして通したときには方向性を与えて使うことができます。
たとえば、スプーン曲げですが、自我が入らずに(自分でやろうとせずに)パイプになりきった状態で、エネルギーをスプーンを曲げることに使いたいと一点に集中すれば必ず曲がります。
また、神社に参拝する際も同じです。
神社というのもエネルギーを出したがっている場なので、各神社にそった祈りを発して存在するエネルギーに方向性を持たせれば、力を借りることができるのです。
一番簡単にわかりやすく実験ができるのは、飲み物や食べ物をよいものに変えてみることでしょう。
ある程度レッスンが進んでこれば、誰でもできるようになりますが、飲み物が入った2つのペットボトルを用意し、一方だけ、「自分に最適なものにな~れ」と意図します。
あるいは、しばらくの間、ペットボトルに光が流れ込むイメージをしてもよいでしょう。
その後、変容させたペットボトルとそうでないペットボトルをひとつずつオーリングテストをしてみれば、変容させた方はおそらく指が閉じるでしょう。
わたしたちは、いとも簡単に創造力を使って目の前のものや現実をつくりだしたり変えることができます。
自我というのはコントロールが好きで、こうでなければいやだと思っています。
でも、そのコントロールを手放した時には、神の意志や流れにそって創造力を使うことができるのです。
イメージとしては、ラーメン屋さんに入って、わたしたちができるのはチケットを買って出てきたものを味わうだけであり、味のコントロールはできないというのと同じです。
自我を手放し、自我に基づくエネルギーではなくて、やすらぎや安心感という源のものを使えば、わたしたちは必ず、目の前にやすらぎや安心感のある現実を創りだしていくことができるのです。