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2013年11月20日水曜日

師の言葉より・・・。

以前、『JIN-仁-』という人気ドラマがありました。

このドラマは、現代から幕末の日本にタイムスリップした脳外科医・南方仁が、過去の人間の運命を変えていることを自覚しつつも、人々を救う為、現代から持ち込んだ知識と幕末の人々の協力により、近代医療を実現していくというようなストーリーです。

『JIN-仁-』では、実は、私たちが持っている、「神」への間違った錯覚がいたるところに散りばめられています。

(このドラマをご存知ないとわからない話になってしまい、ごめんなさい。)

主人公のタイムトラベルそのものや、人々の生死などが神の責任(神の采配によるもの)とされ、私たちの運命は神の手の平の上で転がされ、神はよいことをすれば微笑むけれど、悪いことをすれば罰があたるというものが前提となっています。

このドラマで多くの人々が感動したということは、神へのこの概念を多くの人々が持っているということでしょう。

しかし、「神が罰をあてる」というのは、私たちの中の自我による善悪の基準をあてはめて投影しているだけです。

奇跡のコースでくり返し伝えられている通り、本当の本当は、神はこの自我の世界のことには一切関与していません。

私たちが見ているものは、すべて自我の投影です。

私たちがこの世界を見ながら考える必要があることは、常に、「自分は何を投影したのだろうか」ということです。

神に対して、「わかりません。でも、知りたいんです。」というところに立ったときには、聖霊も助けることができ、幻想から抜けられるでしょう。

一方、神に対して、「神とはこういうものだ。」と意識的であれ、無意識であれ、定義しているときには、自我による投影が入っていて幻想の中に留まることになるでしょう。

奇跡のコースを通し、神への投影を癒すことで、より真実を見られるような知覚を得ていけるのではないでしょうか。

特に、レッスン123以降、この『JIN-仁-』で描写されているような自我から定義づけている神を通り抜けられるかどうかがポイントとなってくるかもしれません。

神に感謝すると言われても、自我が神という概念になんらかの自我を投影してしまい、なんとなく反感を感じてしまったり、レッスンが分かりにくいと感じてしまうこともあるでしょう。

レッスン123の神に感謝するとは、自分自身の存在を自我からではなく肯定するということなのかもしれません。


以下に、JACIMという奇跡のコース学習支援サイトの記事を転載します。

〔レッスンに出てくる神というものを理解する一助として〕
http://lesson.spiritual-counseling.info/?p=460

〔レッスンに出てくる神について誤解しないために〕
http://lesson.spiritual-counseling.info/?p=471

2013年10月10日木曜日

学びのプロセス(教師のためのマニュアルより抜粋)

師の言葉より・・・。

レッスン100を超え、あまりにもリアルレッスンが続いたり、自我に揺さぶりをかけられて、本当にレッスンができているのだろうか、落ちこぼれでJからも見放されるのではないかという自我のささやきが時に聞こえてくるかもしれません。

下記は、奇跡のコース「教師ためのマニュアル」から、学びのプロセスについて書いてある部分を抜粋してあります。

この部分から、Jはすべてお見通しだということがなんとなくわかるかもしれません。

奇跡のコースは、それぞれの人にオーダーメードのものになっており、同じレッスンをやっていても、一見表れる変化は進捗度合いが異なるように感じるかもしれません。

しかし、どの人も、レッスン100の段階で見える世界と、レッスン200の段階で見える世界とは、全く次元の違うものになります。

奇跡のコースの学習者たちは、ほとんど、自我の取り消しというゆるしのプロセスを誤解してしまう部分があり、いとも簡単に不可思議な力がつくものだと考えてしまいます。

しかし、すべての人がまだ道の途中であり、ゴールにはいたっていないのです。

奇跡のコースは深い深いものです。

目覚めへのプロセスにおいて、途中になにがあろうとも、いつもJが見ていてくれているということが以下より感じていただけるかもしれません。


◆教師のためのマニュアルより◆

知覚することは学習の結果である。

事実、知覚することが学習だといえる、原因と結果は決して別々にはならないのだから。


神の教師たちはこの世界を信用している。

それというのもこの世界は、この世界が作り上げた(自我の)法則によって支配されているのではないことが分ってきたからである。


それはその人たちの内にありながらも、自分のものではあらざる御力によって支配されている。


これこそすべてのものを安全に護ってくれる御力。

この御力を通して神の教師たちは許された世界をながめるのである

このような御力をいったん経験したら、自分自身の取るに足らない(自我に基づいた)力などもう二度と信用することは不可能となる。

いったいだれが、偉大な鷲のような力が与えられているというのに、ちっぽけなスズメの翼で飛んでみようとなどするだろうか。


そしてだれが、神の賜物が目の前に置かれている時に、自我のみすぼらしい捧げ物のほうを信頼しようとするだろう。

何がその人たちに心を入れ替えようという気にさせるのだろうか。


A. 信用の発達過程

まずその人たちは「取り消しの時期」とでも呼べるときを過ごさなければならない。

これには必ずしも苦しみが伴わなくてもいいのだが、普通そうした体験になりがちだ。


まるでいろいろなものが取り上げられていくように思えるが、それはそうしたものに価値がないと気づいたにすぎないのだということが、最初はほとんど理解されない。

ものごとを違う見方で見ざるを得ない立場におかれた者でなければ』、どうして『その価値のなさ』を知覚できるだろうか。

その人はまだ、内面的に完全に転換できるところまできていない。

したがって、その計画は時には外面的な境遇の変化を必要とすることもある。

こうした変化はいつも役に立つ。

神の教師がそれだけ習ったとき、次の段階へと進むことになる。


つづいて、神の教師は「区別する時期」を通っていかなければならない。


これは、『やや難しいのが常』、なぜなら自分の生活のなかでの変化は、いつも役立つということが分ってきたので、今ではすべてのことを、それがもっと役に立つのかそれとも妨げになるのか、ということに基づいて決める必要がでてくるからである。

その人は、自分がいぜん大切にしていた(自我に基づいた)ものごとのほとんどとまでいかなくても、そのうちの多くが、『自分の習ったことを新しい状況がもちあがるにつれてそれに置き換えるという能力を、じゃまするだけだ』と分ってくる。

『本当に価値のないもの』を大切にしてきたために、『失うことや犠牲を恐れて』、習ったことから結論を導き出すことができずにいる。

『すべての物事や出来事や出会いや境遇が役に立つ』、ということを理解するには『かなりの学習を要する』。

そうしたことがどれほど役立つかという範囲でのみ、この錯覚の世界において、そうしたことにもある程度の真実味があるといってもいい。

「価値」ということばは、他のものには何一つあてはまらない。

三番目に神の教師が通り抜けなければならないところを、「放棄する時期」とよんでもいい。


もしこれを、『望ましいものをあきらめることだと解釈したなら、ものすごい葛藤を生じる』ことになるだろう。

このような苦悩を完全に免れる神の教師はほとんどいない。

しかしながら、『価値のあるものを価値のないものから選り出す』ということは、つぎの明白な一歩を取らない限り、何の意味もない。


だから、神の教師が自分自身にとって一番ためになることを、真理のために犠牲にするようにと頼まれているように感じそうな、二つのことが重なる段階がありそうだ。

その人は今のところ、そんな要求がいかに全く不可能なことか悟っていない。

このことはその人が『実際に価値のないものを本当に手放したときにのみ』分ってくる。

こうすることで、その人は悲しみを予想していたのに、かわりに気が楽になって嬉しくなったり、何かを自分に要求されていると思っていたのに、賜物を授けられていることがわかってくるのである。
ここで「腰を落ち着ける時期」がくる。これは静かなときで、神の教師はしばらく程よい平安のうちに一休みできる。

ここで自分の習ったことを統合することになる。

ここで自分の学習してきたことの転移価値が見えはじめる。

それの可能性は文字どおり驚異的であり、その神の教師はいまこそ自分の進んでいる過程において、そこから抜け出せる道が見えてきた時点にいる。

「自分の望まないものを手放し、自分の望むものを取っておくこと」そうした明白なことはなんと簡単なことだろう。


そしてなんと容易に行なえることか。

神の教師にはこうした休息するための時期が必要だ。

その人はまだ自分で思っているほど遠くまできてはいない。

しかし進む準備ができたら、力強い仲間たちと連れだって行くことになる。


今しばらく休んで、出発する前にみんなを集めている。ここからは一人で進むのではないのである。

次の段階はまさしく「心が動揺する時期」となる。

今となって、神の教師は何が大切で何が大切でないのか、自分には本当によく分ってはいなかったと判断せざるを得ない。


実際には今のところ、自分は価値のないものは望んでおらず、価値のあるものを望んでいるということが分っただけだ。

しかしその違いを自分に教えるのに、自分自身で区別しようとしたことは無意味だった。

『犠牲についての想念がその人自身の考え方の中心となっている』ので、それがその人に全く判断できなくさせている。

自分では、快く進んですることを学んだと思っているが、こんどは何のためにそうするのかが分っていないことが見えてくる

だからこれから、もしかするとそこに達するまでには、長い長い時間がかかるかもしれないが、その状態になんとか達しなければならない。

判断することを全面的にやめるようにしなければならないし、どのような境遇にあっても自分の本当に望むことだけを求めるようにならなければいけない。

こうした方向にむかうそれぞれの段階をかなり重点的に強化してなかったなら、確かに難しいことだといえるだろう。


そして最後に「達成したといえる時期」がある。

ここで、学習してきたことが統合される。

今こそ、以前はただの影にすぎないと見なされていたことが、堅実に習得したものとなり、平穏なときだけでなく、ありとあらゆる「緊急事態」においても頼りにできるようになる。

実のところ、平穏な状態がその結果であり、正直な学習と一貫性のある思考と十分な転移の成果である。

これが本当の平安といえる段階、ここにこそ天国の状態が余すところなく反映されているのだから。

ここからは天国への道は開いているし容易である。

事実、それはここにある。もし心がすでに平安に満たされているなら、いったいだれがどこかよそに「行こう」とするだろうか。

そしてだれが平穏をなにかもっと望ましいものに変えようとなどするだろうか。

いったい何がこれ以上に望ましいものとなり得るだろうか。

どうしようもないとき

師の言葉より・・・。

レッスン90以降、自我が解体されることに本格的に危機感を感じ、レッスンとリンクして、ハードなリアルレッスンに直面することもあるかもしれません。

そんなときには、もう本当に駄目だと感じることもあるかもしれません。

でも、もう駄目だと思っているのはあなたの本質ではなく、自我がそう思わせているだけです。

それを真に受けて、自分が「もうだめだ」と感じていると思っているとき、自分=自我に錯覚してしまい、自我のワナに嵌められているということを見抜くようにします。

「もうだめだ」と感じさせている自我はそもそもあなたの本質ではない自我が勝手に言ってそそのかしているので、その自我に付き合い、その自我の言葉に対して「なんとかしよう」とすると、ますます自我のワナにはまります。

自我のワナに嵌まっているときは自分を自我と思い込んでいますから、自我に騙されたままで自我から聖霊にお願いしても、そもそも自我は聖霊を信用してませんから(自我は自我以外は、神であれ、聖霊であれ、レッスンであれ、人であれ、けして信用してたまるかと思っています)、聖霊とコミュニケーションすることを自我自体が拒否しています。

なので、まず、「もうだめだ」と感じた時点で、今、自分はまた自我に騙されかけていると、自我の企みを見抜き、「自分の本質は神の一部であって、いつも不安で怖れていて疑り深い自我ではない。聖霊よ、私が自我なんかではなく、神の一部(私はキリスト意識そのもの)であることにとどまらせてください。自我が不安や怖れや疑いという形で私を騙そうとしても、それに騙されないで、神の一部としての安らぎが私であることを思い出させ続けてください」というようにします。

もちろん、自我は、それに対して、「聖霊や神やレッスンなんて信用できない。この怖れや不安や疑いやこりゃだめだという感覚こそがお前自身なのだ」とそそのかし続けますが、その誘惑に乗らないようにする意思は必要です。

そして、諦めずに、やすらぎや静けさが訪れるまで、くり返しゆるしを行いつづけます。

与えることと受け取ること 

師の言葉より・・・。

『真に与えられる贈り物には喪失は伴いません。』

この真実は、わたしたちが怖れを抱きやすいもの“お金”に対してもあてはまります。

あなたがお金を使うと、貯金だったりお財布の中身が“減って”しまうように感じるかもしれません。

でも、本当はそうではないのです。

すべてが存在しているので、あなたがお金を使ったところで減りもしなければ増えもしないのです。

あなたが千円なにかのためにお金を使うことは、千円分誰かの役にもたっていて、あなた自身も千円分のなにかを得て、そこには本当は誰にとっても“楽しさ”しか存在しません。

自然界の海の寄せてはかえす波のように、たまたまこの世界ではお金という形をとっていますが、単なるエネルギーを交換しているだけなのです。

このようにお金はエネルギーの交換として循環しているので、正に、“金は天下の回り物”なのです。

こんなお話があります。

森のなかで自然とともに暮らし、お金がまったく必要ない修行僧たちがいました。

あるとき修行僧たちの師(仏陀)が、「ふもとへ行って“貧しいひとたちに”托鉢(お経などを読んでお金をもらうこと)をしてきなさい」といいました。

弟子たちは、当然のことながら、貧しい人からお金をいただいたら、更に貧しくなってしまうと師に問いました。

師は一言、「貧しい人は、お金をださないから貧しいんだよ」と。

あなたが手に入れたいと思うのなら、減ったり失ったりすることを怖れずに与えつづけなさい。

笑いの神

師の言葉より・・・。

笑いのなかには神がやどります。

心からの笑いは、起こそうと思って起こるわけではありません。

そこには神や聖霊がはたらいているのです。

あなたはレッスンを始めて以降、ひとりでいるときも誰かとともにいるも、笑っている瞬間がふえてはいませんか。

レッスンによって、自我の解体が少しずつ少しずつ進み、あなたがぎゅっと握りしめていたものを手放すことによって、あなたのなかに「間」だったり、本来のひょうきんさやおもしろさというものが外側にあふれているかもしれません。

あなたの内側の怖れ・怒り・攻撃などがレッスンを通して、ゆるしを通して、ひとつずつ消えていき、それが喜びに取って代わっているのです。

あなたの外側の現実というのは、内側にある原因によってつくりだされるので、あなたの内側に楽しさしかなければ、楽しい現実だけを見ていくことになります。

また、握りしめているものが少なくなれば、特別にこの瞬間だけが楽しいということはなく、すべての瞬間に最良のことが起こっていると見るようになるため、だれとどこでなにをしていてもその瞬間のみを味わい尽くして均一に楽しいと感じるようになるかもしれません。

いたるところに神や聖霊のまなざしはあり、あなたのまわりには喜びや楽しさが満ちあふれているのです。

悟りや目覚めというのは、どこか遠くにあって辿りつくわけではなく、いまこの瞬間もあなたが目を向けさえすればできるのです。

Jからのサポート

師の言葉より・・・。

レッスンが毎時5分という時間指定というのは、日常生活で仕事をしていては難しいと感じるかもしれません。

でも、これが「毎時間初めの5分間は、J自身が必ずあなたのもとに訪れて寄り添うことを約束しますよ」ということを意味しているとしたらどうでしょう。

あなたがたった5分間、決まった時間に瞑想する決意をしたなら、必ず時間通りにJがやってきてサポートしてくれるのです。

Jはやさしくて、ちゃんとあなたのことを考えてくれていると思いませんか(笑)?

また、レッスンでは神があなたに語りかけるという言葉が出てきますが、それは、必ずしもあなたの自我がイメージするようなものではないかもしれません。

ふとした瞬間の思いつきであったり、たまたま開いた本の言葉であったり、会話であったり、テキストや「神の使者」の言葉であったり・・・。

聞きたいという思い、手を伸ばそうという思いがあれば、きっと神の言葉を聞くことができるでしょう。

変化への期待

師の言葉より・・・。

どうしても、日々、なんとか時間を捻出してレッスンを行っていると、わたしたちの自我は効果や変化を期待したくなります。

レッスンをする過程において、「効果や変化があれば嬉しい(信じてやる)」、「効果や変化がなければがっかりする(やっぱりな・・と信じてやらない)」という自我のワナに嵌まってはいないでしょうか。

自我は、どこか無意識のうちに、結果にこだわっていて、効果や変化がないことを「怖れ」ています。

なぜなら、信用できる出来ないという考え自体が、「裏切られたらどうしよう」という怖れ=自我からきているからです。

自我は正しい判断などできないのに、自我から信用を考えていたら、絶対に信用はありません。

なぜなら、自我は本質的に怖れであり、怖れに支配されているがゆえに、信用なんてしてたまるかと奥底で思っている発想だからです。

もちろん、自我はあなた自身ではありません。

けれど、あなたがあたかも感じていると思わせることは得意です。

自我の特徴をつかみ、それは自分ではない、自分とは神の一部だと、戻ることが大切です。

自分を自我の疑いにおかず、神の一部であると常に戻り続けた時、効果や変化は確信として疑いようもなく、それゆえに、効果や変化があるかどうかさえもこだわらずに効果や変化が出つづけるのです。

完全に目覚めたとき

師の言葉より・・・。

わたしたちが完全に目覚めたとき、つまり、自分が神の存在そのものであったことを知ったときには、きょうだいたちを「わたしたちは何ひとつ欠けることなく、すべてを持っていたんだよ」というところに連れていこうとします。

その際には、聖霊という肉体を持たない状態か人間として生を受けてサポートするか、どちらかを選択できるようです。

肉体を持つことは物理的に制限がありますが、聖霊として肉体がない状態であれば、時間・空間・距離に制限されず、同時にたくさん助けられます。

いずれにせよ、完全に目覚めたときも、ゆるしは続きます。

そのときには、今のわたしたちとは違い、ゆるしは喜びであり、習慣としてあたりまえにやってはいますが、常にこの幻想の世界を解除し続けるのです。

そして、それは、おそらくきょうだいたち全員が、最後のひとりが完全に目覚めるまで続くのでしょう。

天国と地獄

師の言葉より・・・。

死を迎えたときに行く(移動する)場所が「あちらの世界(あの世)」です。

多くの人々は、あちらの世界には天国と地獄があるという概念を持っていたり、耳にしたことがあると思います。

実際のところは、地獄というものはありませんが、あちらの世界というものも、神の実在の世界とは異なり、わたしたちが作った世界であるため、地獄のように感じるということはあります。

この部分は、レッスンを通して目覚める、今この瞬間に生きるということと関連がありそうなので、あちらの世界がどういうものかというところから案内します。

◇あちらの世界とはなにか?
こちらの世界で死んだと言われているときに移行する場所。
わたしたちはスピリットであり、死は不可能であるため、死とは単なる場所や次元の移動だけであり、次にこちらの世界に来るまでにいるための場所。

◇あちらの世界とはどんな場所か?
基本的には、ほぼこちらの世界と同じ概観。
街並みがあり、飲み屋があり、家があり、ディスコがあり、と下世話なものもある。
一般の人がイメージする光しかなくて、天使がいてというファンタジーの世界とは異なる。
あちらの世界へ行ったからといって、姿形がなくなるわけでも、記憶や自分がやってきたことがリセットされるわけでもない。

◇自分の姿や知り合いとはどうなるのか?
姿形は今生のまま、服装は男女ともにムームーのようなものを着ている。
今生からの知り合いとは、相手が転生していなければ、あちらの世界のどこかで、普通に「あっ、久しぶり」という感じで、出会うこともできるし、恋愛等も生まれる。

◇転生はどんな感じか?
いつ次の生に転生するかはわからず、突如起こり、光と共にあちらの世界から消えて、こちらの世界へ移行する。映画「スープ」で描かれている通り。スープを飲んでいれば、前世の記憶はなく転生する。

◇あちらの世界では、お金や食べ物はどうなるのか?
食べる必要はないが、こちらの世界がなつかしいな~と言って、食べたり飲んだりすることはある。
食べる必要はないため、お金も必要なく、仕事もない。
暇でやりたい人が、自分の特技やこの前の生での経験を活かして、楽しんで、お店(飲食店、バー、服屋さん)を作ったり、飲食物や物を提供することはある。
お金があっても仕方がなく、所有や執着の概念がないため、あちらの世界では、好き勝手に楽しく飲み食いし、服を調達することができる。

◇住居は?
空き家に住む。
全員、自分がいつ転生するかもわからず、突如するりと消えてしまうため、常にどこかに空き家がある。そもそも、いつ消えるかわからないし、食べる必要もお金も住居や土地も持つ必要がないため、所有や執着という概念がない。使われていないものを使えばよいという概念。

◇時間の概念は?
時間というものはない。しいて言うならば、イメージとして、子ども時代に夢中になって遊んだときを想像し、時間を気にせずただ無我夢中で遊んで時間が過ぎているのと似ている。

◇人々はなにをしているのか?
こちらの世界とは違い、仕事や家事、人づきあいなど、しなければいけないことがまったくない。
ただひたすらやりたいことをやって、楽しむだけ。


こちらの世界とあちらの世界の決定的な大きな違いは、「所有するという概念がなく、執着が生まれないこと」です。

こちらの世界では、死んだら終わりだという概念が根強く、食べなければ死んでしまうという恐怖心から、お金を作りだし、もっともっと持たなくてはやっていけないという共同幻想が生まれました。

あちらの世界では、所有や執着がないため、守らなくてはやられてしまうという恐れからは一時的ではありますが、自由です。

でも、その代わり、やらなければならないことがないので、楽しんで味わい尽くすことしかできません。

こちらの世界において、人々は、恐れに対する埋め合わせとして行動していることが多いのですが、あちらの世界ではそれができなくなります。

たとえば、買い物依存症、仕事中毒、予定を埋めて恐れから目をそらす、などなど。

こちらの世界で自我から目覚めていない人や、常に恐れに対する埋め合わせをしていて「間」がない人にとっては、なにもやることがない、予定も立てられなければ、過去や未来の心配もできない場所というのは、ある意味地獄に感じられるでしょう。

あちらの世界もこちらの世界と同じで、わたしたちが作った自我の幻想の世界です。

こちらで自我から目覚められなければ、ある意味、恐れからは自由ですが、ずっとずっと同じことの繰り返しですし、瞬間瞬間を楽しんで味わうことができなければ、どちらの世界でも苦痛です。

あちらの世界でもこちらの世界でも逃げ場はなく、ただ幻想を見破って目覚めなければ永遠に自我の幻想の世界から脱することはできないのです。

悪夢について

師の言葉より・・・。

レッスンが進むにつれ、悪夢を見ることがふえたかもしれません。

でも、悪夢は悪いことではありません。

悪夢は、ひとつは自我の解体とそれに伴う自我の抵抗、もうひとつは聖霊からのメッセージなのです。

潜在意識の中の自我が徐々に解体され、悪夢を見ることによってそれらが解放(消去)されているのです。

また、聖霊は、悪夢を通して、あなたが生きている幻想の世界も夢と同じですよと伝えようとしています。

悪夢を見ている間は現実だと思って怖かったり気持ちが悪かったりするかもしれませんが、目が覚めればなにもなくてあなたは安全だと気づくでしょう。

悪夢は、わたしたちが生きている幻想の世界とまったく同じです。

聖霊は、今あなたが生きている幻想の世界も悪夢と同じで、あなたが目覚めれば夢であったことがわかり、何も怖いことはない、あなたは傷つけられえないのですよと伝えようとしています。

幻想の世界においても、悪夢においても、すべきことは同じです。

見ている最中に、これは本当は存在しないものなのだと見抜き、「わたしはキリスト(意識)、自我のこの知覚はわたし自身ではなくて幻想です。聖霊よ、わたしがキリスト(意識)であることを思い出させ、このありもしないものを取り消しててください。」と聖霊にゆだねること。

悪夢は、寝覚めが悪いかもしれませんが、決して悪いことではありません。

究極のヒーリング

師の言葉より・・・。

身体の不調でも、人間関係におけるトラブルでも、仕事上の悩みでも、わたしたちはそれらを“問題”として認識します。

でも、実在の世界では、本当の本当は問題は存在していません。

単なる出来事の連続があるだけです。

そこには、よいも悪いも本当はありません。

問題があったらそれをなくさなければ、すなわち問題は悪いものだと認識しています。

起こる出来事、目の前にあるものを問題だと見なした時点で、よいとか悪いという自我によるあてにならない判断が加わり、問題に力を与えることとなります。

たとえば、ヒーリング。

多くの人は痛みや不調があると思って、ヒーリングを受けるでしょう。

では、ヒーリングをする側(単なるパイプとなり、天地のエネルギーを通す人)は、どうしたらよいでしょうか。

ここで、ヒーリングをする側の人まで、痛みや不調を問題だと価値判断だと加えれば、そこに力を与え、問題は永遠に解決しません。

その事象を治そう(=それは悪いものだという判断)とはせずに、ただそこにあるものをあるんだねと認め、ありのまま感じつづけることに集中すれば、究極で言えば、問題はなくなります。

さらに、あなた自身も目の前の相手も完全なる神聖な存在(同じキリスト意識をもった存在)と見つづければ、同様に問題はなくなります。

完全なる神聖な存在と見ているときには、不完全だと見るのではなく、あなたも相手も完全に肯定された状態だからです。

ゆるしを行うタイミング

師の言葉より・・・。

ゆるしが必要な状況が起こったとき、わたしたちには自我があり、感情もあるので、すぐにすぐはゆるすことができないかもしれません。

また、ずっと過去から握りしめてきたことでゆるしが必要なこともあるでしょう。

ゆるしは、その場ですぐ行わなければいけないわけでもなく、目の前にその人物や状況がなくても(終わったことであっても)行えます。

あなたが、自我を選択しないでゆるしを行うと決めたときがゆるしを行うタイミングであり、いつでもどんな状況でも、昔のことであっても、ゆるしは実践できます。

聖霊は、待ちくたびれたなどということは言わず、いつでも手を差し伸べつづけているのです。

本当のまじめさ

師の言葉より・・・。

世間一般から見たまじめさとは、会社にきちんといって業績をあげたり、日常の中でまわりからの評価や評判のよさがあることなどです。

でも、これらは、自我が勝手に作った法則に基づくものです。

もちろん、幻想の世界で生きていく上では当然必要なことではありますが、本当にこれらはまじめだ、一生懸命生きていると言えるでしょうか。

本当の意味でのまじめさとは、「自分はなんのために今ここに存在しているのだろうか」と問いを発しつづけ、その答えをひたすらに、片時も忘れることなく求めつづけることではないでしょうか。


☆ブログ作成者より☆

わたしは、師の子どものころから現在に至るまでのお話と共に上記の言葉を伺いましたが、師の求めつづけてやまないその姿にはっとさせられ、自分はこれまで何をしてきたのだろうかと本当に恥ずかしくなりました。

師は、子ども時代に強く感じた、「自分はこんなことを味わうために生まれてきたんじゃない、きっと真実は別のところにあるはずだ」という思いから、今日この時まで、片時も忘れることなく求めつづけ、今の師の姿があります。

わたしが見たりお話しを伺う限り、師は、文字通り、四六時中、真実や神について考え、問いを発しつづけている方です。

知識がある、能力がある以前に、これほどまでに真剣に、一瞬たりとも忘れることなく求めつづけていることこそが師の素晴らしさであり、すごさであり、そのひたすらさは誰も敵わないのではないかと感じています。

「奇跡のコース」というこれを本当に掴めば真実に行けるという確実なものと出逢えたことは本当に幸運です。

求められているのは、ただ真実に行きたい、目覚めたいという強い意志力とコースをやりつづけることだけ。

ブログ作成者も、師には敵わないかもしれませんが、この目の前に転がっているチャンスを絶対に掴みたい、なにをおいても目覚めたいという強い思いを持ちつづけようと思います。

Lesson75以降の変化

師の言葉より・・・。

レッスン75以降は、更に自我が解体されてゆき、目に見える形でも見えない形でも、変化が起こっていくでしょう。

そのひとつにオーラの変化があります。

日々のレッスンをつづけていれば、自我の解体が徐々に進んでいるので、自我の方がどう捉えたとしても、あなたの本質の部分、スピリットの方が、「この世界は幻想で自分を攻撃してこないんだ、だから自分も攻撃する必要がないんだ」と認識するようになります。

そのため、恐れることはなにも存在しておらず、守る必要も攻撃する必要もないということを本質の部分でわかるため、オーラはあたたかくてやわらかいものに変容していきます。

それに伴い、体重や体型も変化するでしょう。

わたしたちには、目に見えている体型や体重と、オーラボディという、魂がこの世界で最も輝いたり役割を果たすのに最も最適な体型や体重とがあります。

多くの場合は、恐れによって、自分を強く見せなくてはとオーラボディより太っていたり、守ってもらわなくてはとやせていたり、と最適な体型や体重ではありません。

それが、自我の解体によって、恐れも消えていくため、魂的に最適な体重・体型に、最も心地がよいものへと自然に近付いていくのです。

肉体はそもそも幻想であり、食べたから太るわけでも、食べないから痩せるわけでもないのです。

ゆるしきったときには・・・

師の言葉より・・・。

自我的に大きな出来事があったときこそ、その出来事に対してひとかけらの感情的意味づけも残さない、つまり完全にゆるし(取り消し)尽くす絶好のチャンスです。

「ゆるし」と一言で簡単に言っても、実際には、一度聖霊にゆだねただけではゆるしきれないことが多いでしょう。

わたしたちの感情も玉ねぎの皮のように幾層にも重なっていますし、自我という過去からのパターンも何千年もの間に積み重なってきたものであり、それらをすぐにすぐ取り消せはしないかもしれません。

でも、諦めずに何度も何度もくり返し、聖霊にゆだねつづけます。

ゆるしてもゆるしても、ゆだねてもゆだねても、感情的なもやもやが残っていれば、まだまだゆるして聖霊にゆだねつづけます。

そして、何十回か何百回かはわかりませんが、ゆるしつづける中で、その出来事に関して感情的意味づけがなくなり、ふと静けさややすらぎが訪れる瞬間がきます。

自我はそれでも、あなたが感情的に嫌だと思うことを正当化する理由を探しつづけますが、そのときもゆるしを行いつづけます。

完全にゆるしきれたとき、その出来事を過去の出来事として、感情的なものがない状態でただの出来事として眺めていられるようになります。

ゆるしきれたかどうかの基準のひとつとして、その出来事を眺めたときに、自我のやっていることは本当に滑稽だと笑い飛ばせる話になったときには、おそらくその自我に関してはゆるしが終わったのでしょう。

ゆるしをくり返し行う中で、自我が投影させ、あたかも現実であるかのように思わせている、感情を動揺させる出来事や概念について、とにかくひたすらゆるし(取り消し)つづけていくと、聖霊が包んでくれているのがよりわかりやすくなるでしょう。

自我がやっていること

師の言葉より・・・。

自我は、わたしたちの目の前の出来事を創りだしたクリエーター(制作者)として、その出来事を本当に起こっている現実にしようとあらゆる手段を使って、わたしたちにストーリーそのものを手放させないようにしようとします。

でも、起こる出来事は幻想です。

自我は過去のパターン(心の内側にある種、原因)からストーリーを制作して、スクリーンを通して作り上げたストーリーを映し出し(投影、結果)ます。

では、そのスクリーンそのものを取り消してしまえば、自我が作ったストーリーは映し出される場所を失い、出来事そのものも生まれないことになり、幻想だったのだと言えるのです。

この取り消しの作業、幻想だと見抜き、手放す決意をし、聖霊にゆだねること、がゆるしです。

取り消しを行わなかったときには、自我そのものが出来事の制作者であるにも関わらず、わたしたちの自我は外側に感情の理由を求めつづけ、あいつがこうしたから自分はこんなにひどい気分なんだと責任転嫁します。

このときには、わたしたちの自我は、自作自演のドラマに対して文句を言っていることになり、実はとても滑稽なことをしているのです。

ですから、ゆるしを行ったときには、自我の滑稽なやり方に対して笑い飛ばせるようになるのです。

そして、わたしたちの目の前にいる人たちはどの人も鏡としてわたしたちを写し出していて(他人=自分)、わたしたちの自我をキャストとして演じてくれているだけなのです。

2013年10月9日水曜日

時間の幻想

師の言葉より・・・。

わたしたちは時間の幻想という強固な自我をもっています。

時間をかけることがよいことという信念や、時間をかけなければ変化はありえないという概念など。

しかし、奇跡のコースでは、自我の解体により、この時間の幻想さえも飛び越えていきます。

本来、瞑想であってもヒーリングであっても、1分も60分も効果はまったく同じであり、時間によって効果が異なるというのは、時間の幻想の中にいて自我で行っていることになり、真実ではありません。

たとえば、以前紹介したグランディング瞑想では、1分間と決めて1分で余分なものをすべて落としきるんだと意図すれば必ずできています。

ただ自分でやろうとするのではなく、落としきるとゴールを決める(意図する)だけです。

1分であっても10分であっても同じです。

また、ヒーリングに関してもヒーリングする側は、10分も60分もまったく同じ効果です。

ただ、ヒーリングに関しては、受ける側が時間の幻想の中にいる場合は、時間をかけるということが受け手にとって必要であることはありますが、ヒーリングをする側は時間の幻想を見破って、時間を越えて行う必要があります。

奇跡のコースを通して、なにか達成したら、レッスン365までやったら奇跡が起こるということではなく、毎日レッスンを行うことで、毎日毎日確実に奇跡を起こしつづけ、変化しつづけています。

わたしたちの「変化は時間がかかるもの」という時間への自我の強固な信念により、実感はないかもしれません。

しかし、その時間の幻想に関する自我さえも徐々に解体されるので、変化は意図すれば瞬時に起こるのがあたりまえという体験のなかで、時間が幻想であることもあたりまえのこととして受け容れていくようになるでしょう。

意図すること

師の言葉より・・・。

レッスンをやっていてもできているのかよくわからない、自分が変化しているのかよくわからない、ゆるしもできているのか実感がなくてわからないと感じているかもしれません。

自我の判断(できているできていない、変化しているしていないなど)というものはまったくあてになりませんし、自我はいつもわたしたちを錯覚させようとし、様々な囁きかけをしてきます。

あなたができるのは、あてにならない自我の声に耳を傾けないこと、確信をもってレッスンを行うことだけです。

わたしたちには神から受け継いだ創造力があるので、「意図」を発すれば、必ず創りだせます。

わたしたちが意図を発すればいかに簡単に創りだすことができるか、簡単に実験できるものを紹介します。

まず、左右の中指の第一関節と第二関節の線を合わせて手のひらを合わせ、左右の中指の長さを見ます。

どちらかが長ければ、長い方の指1点に集中して反対の指の長さと同じになるよう意図を発します。同じ長さであれば、一方の指1点に集中して伸びるようにと意図を発します。

意図を発したら、指にじっと集中するだけです。

変化を感じようとせず、集中するだけで何も考えなくて大丈夫です。

数分もすれば、自分が意図した通りの長さに指は変化しているはずです。

ここまでで起こったことは、

意図を1回発する→意識を全力で集中(意識を向けつづける)→変化が起こる

だけです。

ここでの肝は、指が伸びているかいないかわからないし感じられないけれど、とりあえず意図は発したら、知らない間に変化が起こったということです。

レッスンでもまったく同じことをやっているのです。

たとえば、朝その日のレッスンを読むとします。

各レッスンはその日の一文というのが一番最初にありますが、それを読んだ時点で、わたしたちは意図を発していることになります。

そして、その後、一日を通しての数回の数分のレッスンでは、意識を一点に集中するということを行っています。

意図を発し、意識を集中。

これを毎日毎日やっているので、わたしたちは気づかぬうちに意図を発しており、自分で変化しているかわからなくとも、レッスンができているのかわからなくとも、変化は確実に訪れるのです。

ただ、わたしたちは時間の幻想の中におり、時間をかけなければ変化は起こらないという概念があるため、変化が起こるまでにタイムラグがあるように感じることはあるかもしれません。

でも、レッスンを通して神からの言葉に意識を向けつづけて意図を発したときには、変化は確実に自ずと起こるものなのです。

スープと記憶

師の言葉より・・・。

自我というのは必ず過去からのパターンにしたがっています。

前世から引き継いだパターン、今生で築き上げてきたパターン、わたしたちは両方を持ち合わせて、その自我によって自動的に判断したり選択したりしていますが、あなたの自我のパターンを考えてみてもどれも過去が基準になっていることに気づくでしょう。

奇跡のコースを通して、わたしたちは自我が自分ではないことを知り、自我を選択しないことを習慣にしようとしていますが、それができたとき、つまりは過去というものに支配されないときには、どのように日々を生きることになるのでしょうか。

少し話が飛躍しますが、あの世とこの世の仕組みについて、その鍵が隠されています。

もし興味があれば、映画『スープ ~生まれ変わりの物語~』をご覧いただくと、あの世がどういった世界なのかというイメージがしやすいかもしれません。

あの世では、太陽のように一点からの光によって照らされるのではなくて空全体が明るいという点と服装がムームーのようなものを着ている点だけが異なりますが、その他の点においては、非常に正確にあの世が再現された映画となっており、死から次の生まで、あの世の様子は、正に映画の通りです。

本質的には死はありえませんが、境目を「死」「生」という言葉で表すと、生まれ変わりとは、こちらの世界に生を受けて一生を送っては死を迎え、あの世という中間地点でもこちらと同じように過ごし、時がくると(“いつ”なのかは選択できませんしわかりませんが)、次の生をうけて再びこちらに戻るというように、あちらの世界とこちらの世界を行き来している状態です。

奇跡のコースは、この行き来する旅そのものを終わらせて、神と完全に同体のところへ還ろう、自分が神の子であることを思いだそうとするひとつの手段です。

あちらの世界もこちらも世界も、どちらもがわたしたちが作りだした幻想であり、神が関与しているものではありません。

さて、わたしたちは、こちらの世界に生を受けるときには、一般的には、前世までの記憶をすべて失った状態で生まれてきます。

この記憶がない状態というのは、あの世(あちらの世界)で何度も何度も飲む機会に遭遇する非常においしそうな『忘却のスープ』が関係しています。

あちらの世界からこちらの世界に移動する(生まれ変わる)前に、あちらの世界ではこの忘却のスープを飲む機会がくり返し訪れ、これを飲むと、“前の転生(前世)”の記憶をすべて失って、真っ白な状態でこちらの世界に生まれてきます。

このブログを読まれた方々、映画『スープ』をご覧になった方々は、今生の記憶を持ち続けたいか白紙の状態でうまれたいのかを、あちらの世界でスープを飲むか飲まないかという選択をすることで自分で決めることができるでしょう。

ただ、あちらの世界でその特殊なスープの近くにいるとどうしても飲みたくなったり、行列ができていていいものかもしれないと思って、つい飲んでしまいます。

多くの人々はスープを飲み、前世までの記憶が白紙の状態で生まれます。

そして、生まれおちた家の家族や育つ環境から、この世界や自分自身について自我のパターンというプログラムを築き上げていきます。

また、前世の記憶そのものは失っているものの、魂レベルの断片的な記憶も自我として現れます。

このようにわたしたちは自我という過去のパターンを築き、持っています。

では、自我を選択しない、過去から自由な状態というのはどのような状態でしょうか。

あちらの世界でスープを飲んだ場合と飲まなかった場合を考えてみましょう。

スープを飲まなければ、前世からの記憶をすべて持っていますが、同時にそれは、過去の恨みや憎しみ、執着をすべて持っていることでもあります。

一方、スープを飲んだ場合は、生まれたての赤ちゃんのときには、一旦は記憶がすべてなくなって過去からまったく自由な状態にリセットされます。

まさに、スープを飲んだこの白紙の状態が、過去から自由な状態そのものであり、目覚めつづける(自我を解体する)とは、スープを飲んで転生したのと同様に、瞬間瞬間をまったく新しい物や人や体験として受けとることそのものなのです。

ですから、目覚めとは、今この瞬間を味わい尽くすことであり、すべてを過去の記憶からではなくて、ありのまま見つづけることなのです。

このときには、体験することすべてが新鮮で味わい尽くすことしかできず、人と会えばまるで初めて出逢ったように感じ、どの人といても分かちあうことが楽しくて仕方がないという状態になるかもしれません。

自我の解体が進むと、なんだか記憶力が悪くなったなとか、時間の感覚がわからない、執着がなくなるなどということも経験するかもしれませんが、これは、正に過去にとらわれない状態、過去から握りしめていたものを手放しつつあるということの表れです。

この生まれ変わりの仕組みを考えていくと、わたしたちに死はありませんが、今生の物語そのものには終わりがあり、今守りたいと思っているもの、執着しているもの、特別だと考えたくなる人や物や出来事、これらには終わりがあります。

こちらの世界でぎゅっと握りしめているものは砂上の城と同じです。

そして、わたしたちはこの幻想から目覚めきるということをしない限りは、何千年も毎日毎日、砂上の城を作っては壊しをくり返しつづけます。

この終わりのないように見える旅を終わらせることができるひとつの希望、それが奇跡のコースなのです。

2013年10月8日火曜日

不死

師の言葉より・・・。

自我とは自分の本質や神と離れた分離感や欠乏感であり、いつも足りないとか不安という意識を持って、完全なものがどこかにあるはずだと探し求め続けます。

わたしたちは、「自分を知りたい」という意識がある限り、真実の愛(天意)を探し続ける限り、永遠に生まれ変わりの旅をくり返します。

そして、その途中の道はどうであれ、魂の奥深いところで、自分が何者であるかを知ったとき、つまりは、自分は神そのものであったということを知ったときに、その旅は終わります。

終わりは始まりであり、そこには時間も空間も存在しないので、ただなにもなかった、長い長い夢を見ていたことがわかり、夢から目覚めるのです。

奇跡のコースは、旅を終わらせることができる数ある方法のひとつであり、わたしたちは夢から目覚めるためにこの道具を使っています。

レッスンでもくり返されていますが、わたしたちは肉体ではなく、死によって終わるような儚い存在ではありません。

肉体は、こちらの世界を体験するための単なるツール(あちらの世界とこちらの世界を行き来する際に、着物のように脱ぎ着をする)であり、わたしたちが肉体でなければ死や老化を恐れる必要はありません。

今生での生の終わりはわたしたちの存在の終わりではなく、「あの世」という新しい世界への単なる移行で、こちらの世界とあちらの世界を行き来しているだけだと受け容れられると、ぎゅっとしがみついているものを徐々に手放していけるでしょう。

本来は神と同体であり、それこそがまさにわたしたちの自己ですが、この旅のはじまりのとき、自分がなにであるかを光の外に探し始め、そこから自我という過去やパターンというものをわたしたちは作りだしました。

でも、そこに本質はないと気づき始めたわたしたちは、レッスンを通して自我という宗教をやめてみることで、時間や過去や死への幻想が薄らいでゆき、新しい可能性をどんどん築いていきます。

レッスンを通して、死ぬということは不可能だということに気づくときがおそらくくるでしょうが、死への恐れから覚めたとき(自分は肉体でないと知ったとき)には、この幻想の世界を、瞬間瞬間を楽しんで味わい尽くすことしかできない(意味がない)ということを知ることになります。