2013年9月5日木曜日

“観る”こと

師の言葉より・・・。

“観る”とは、魂本来が持っている霊的視野でみることです。

“見る”とは、魂に余分なフィルター(自我=自ら定義したアイデンティティ=過去の記憶や経験則)をくっつけてみることです。

私たちは通常、「自分はこんな人間だ」とか「世界とはこうだ」と判断をくだし、決めつけながら、自我のプログラムを自動的に作動させながらこの世界を見ています。

自我とは単なるプログラムであり、本来の私たちの姿は自我(プログラム)ではありませんが、自我を自分だと思っています。

奇跡のコースのレッスンでは、「自我(プログラム)はあなたの本来の姿ではありません」「自我ではない見方ができるのでフィルターを幻想だと見破りましょう」という訓練をしています。

では、この世界を自我というフィルターなしにありのままに“観る”ときにはどのような世界が広がっているのでしょうか。

“観る”ときにはすべてが黄金に近い状態で光り輝いてみえるのです。

例えば、古びた箪笥があったとします。

箪笥になる以前は、木だったときがあり、伐採され、職人の手が加わり、買った人がいて、私たちの目の前に存在します。

ありのままに観たときには、木として生きてきたときからの箪笥の思いがみえ、光り輝いてみえるのです。

そのときには、自分がどれだけ数多くの物たちに、出逢うことを待たれていたかを知ることになります。

そこには光しかありません。

それは、日々目にしているもの、例えば電柱、ペットボトル、椅子、などなんでも。

そんな世界を観たときには、自分がどれだけ待たれていたかを知ったときには、ただただ涙が溢れてくるでしょう。

道端に咲いている草花に、「本当の姿や光を見せて」と言ってごらんなさい。

きっと光り輝く姿をみせてくれるでしょう。

“光”は自我がイメージするものとは違うでしょうが、どの瞬間にも光は存在しています。

あなたが自我ではなく、魂の目で観ようとしたときには、どんな形であれ、光に気づくでしょう。

この世界は、光で満ち溢れているのです。