2014年1月6日月曜日

Lesson 154 以降について

☆翻訳者より☆

レッスン154以降のレッスンでは、レッスンの回数も時間も特に指定されていません。

つまり、その日のレッスンのメッセージを基に長めの瞑想ワークをやるとして、それが5分なのか10分なのか15分なのか30分なのか、その時間をどのようにどれくらい自分に与えるのかは自分に任されているということになります。

これは短めの練習、すなわち、1日の中で頻度多くレッスンの言葉を思い出すというのも、どれくらいレッスンの言葉を自分に響かせるかは自分に任されているということです。

なので、レッスンの言葉や文章を読み込み、レッスンのエクササイズ(練習)をどのように染み込ませていくかは、私たち自身に委ねられています。

このレッスンを伝えているのはJ、すなわちキリストですから、彼から私たち自身にレッスンをどう取り組むかが委ねられているのです。

私、この事実を初めて認識した時に、ひっくり返りそうになりました。

Jは、私たちが手を伸ばすのを信じているし、待っている。

私たちの多くが、必ずしもJを信じていないということも確実に百も承知で、それでも委ねて、信じて、待っている。

私たちは、自分自身に対して、他者に対して、(むしろ疑いの多い中で)ただひたすらに、委ねて、信じて、待っている、ということができるでしょうか・・・。

回数も時間も指定されていないということは、ともすれば、レッスンを読むだけで終わりにしてしまったり、ただとりあえず「こなす」ということも可能ですし、実際そうなりがちだと思います。

しかし、私たちは、少なくとも、目にするすべてのものや人や出来事は自我の無意識の奥底の投影であること、「こうあればいいのに」「こうでないから不満(ムカつく、腹立つ、不安等々)」など自我の延長線上にはけして心から満たされることなどないこと、などは少なくともわかってきました。

もし、この奇跡のコースに、何かがあると感じている私たちなら、その日その日のレッスンから受けとるためにレッスンにどう取り組めばいいのか、そこに必要な手を伸ばせるはずだと私は思います。

私たちは、委ねられ、信じられ、私たちが帰ることを待ち続けている存在がいるようです。

そして、レッスンとテキストと目の前でみている(と思っている)現実、それはちゃんとシンクロします。

受けとろう、手を伸ばそうとすれば、必ず、完璧なシンクロが起こっている事に気づくはずです。

もちろん、自我はそのシンクロから目をそむけさせます。

手を伸ばすか、伸ばさないか、それは能力や資質の問題ではなく、選択の問題なのです。

そして、レッスンの言葉はこれまで以上にさらに深さと奥行きと広がりが増しています。

レッスンに自我を挟んで言葉を読もうとすると読めないのです。

静かな時間をとって、自我を鎮めて(そもそも、そこに本当はないのですが)レッスンと向き合うと、ようやくレッスンが入ってきます。

どうか私たちが今日のレッスンの祝福をうけとれますように。