奇跡のコース的な「赦し」について
☆翻訳者より☆
奇跡のコースが伝える赦し(ゆるし)は、
私たちが一般的に考える許しとは全く違うものです。
レッスンでは、ゆるしに関するレッスンが例えばレッスン46《神は愛そのものです。その愛そのものの中で私はゆるします。》やレッスン122《ゆるしは私が望むすべてのものを差し出します。》など、ゆるしに関するレッスンが数多く出てきます。
こうしたレッスンのエクササイズ(練習)を行う時、レッスンを自我的な許しで行おうとすると、レッスンの内容そのものを根本的に間違って誤解していると同時に、レッスンそのものが苦痛になると思います。
自我というのは、無意識の深いところで、他者への攻撃が可能と信じているが故に、他者から攻撃される事も可能だと考えています。
この自我の視点から許しは、他者から傷付けられたと思える事に関して、その時点で他者に自分を傷付ける力があると考えており、また、自分は他者に傷つけられうる弱さを持った存在だと信じていることになります。
すなわち、他者を(自分を傷つけれる存在と信じている点において)上に見て、自分を(他者から傷つけられる存在と見ている点において)下に見ているという事になります。
そして、この自我的な発想で「許し」を行うということは、自分を上に見て、他者を下に見下だすという作業をすることになります。
すなわち、「私は心が広いから、私は卑劣なあなたと違って善良な人間だから、私に対して私を傷付けるようなひどいことをした罪深きあなたを許してやる」という作業を無理やりする事をしています。
もちろんこれは、他者は自分を傷つけるような卑劣で罪深き卑劣な人間だと思っている事に変わりなく、心の底では「自分は心が広いから許してやるが、いつかきっと地獄に落ちるし、罰だってあたる」と他者がいつかどこかで不幸になる事を祈り、信じています。
つまり、本当はゆしてなんていない、というか、「自分を傷つけた他者はゆるされない存在だ」と断罪しているという点において、やはり責め続けています。
もっと言えば、「自分は卑劣で罪深き人間を許してやった善良で心優しい人間だ」と完全に正義の立場において自分を騙している点において、「他者に自分の無意識の罪悪感を投影した」とは全く認めない行為をする事になります。
そして、他者を心の中で断罪するということは、「究極的には自分も断罪されることが可能な存在である」と無意識で信じている事に自我は全く気づきません。
これが、私たちが勧善懲悪のストーリー展開のテレビドラマや映画などを見て、悪役対正義の見方に対して投影し、共感する論理です。
こうしたドラマが私たちの自我に訴えるためには、悪役は最後は必ずし不幸もしくは懲らしめられる結果でなくてはなりません。
つまり、自我は被害者意識と正義と悪という概念を信じ、自分は正義とどこかで信じ込み、その正義から考える裁きという名の無意識の攻撃性を必ず持っています。
(参照;「自我が見せている投影の犠牲者にならないということ」 http://lesson.spiritual-counseling.info/?p=433 )
一方、「奇跡のコース的な赦し(ゆるし)」は、この「自我の許し」とは、全く違うものです。
奇跡のコースでは、過去もしくは現在において、「他者から傷つけられた」「自分はその犠牲者である」と自我が認識している事に対して、そもそもその認識自体が完全に誤った現実の認識であると伝えています。
すなわち、自我の無意識の中の攻撃性の投影が、他者が攻撃するというものをあたかも現実に存在させるという法則を提示します。
これについては、例えばですが、レッスン23《私は、攻撃的な思いを放棄することによって、私が見ている世界から脱出することができます。》というような形で自我の錯覚の仕組みについて伝えてくれています。
また、他者から傷つけられたと信じる(それをあたかも現実だと思い込むこと)は、究極的には傷つけられえない尊い存在としての自己を攻撃していることをしているという真の現実をレッスン26《私の攻撃的な思いは、傷つけられえない自分自身を攻撃しています。》で伝えています。
私たちの自我が他者から傷つけられたと思う(それをあたかも現実だと思い込み、心の平安を失うという事)ことは、そもそも自我の無意識の奥底にある罪悪感(自分という存在は神から祝福されている訳ではないという誤った信念)や攻撃性という自我のフィルムが、私たちが現実と呼んでいるこの世界のスクリーンに投影され、自分を傷つけた人間に役者としてその役割を演じさせ、あたかもそれが現実であると錯覚しているに過ぎないと奇跡のコースは伝えています。
つまり、自我の投影による自作自演のドラマによって傷つき、そしてそのドラマでは傷ついたと思っているが故に傷つけた人間をまた内面で攻撃し責めているというループをしていると伝えています。そして、無意識で他者を攻撃し、責めているということは、無意識で自分も攻撃され責められうる存在として認め、実際には自分を攻撃しています。
もちろん、この自我の投影の仕組みを理解し認めることは、自我的には到底納得できない内容かもしれません。
そしてまた、自分を傷つけた人間もまた、攻撃性を持っているのであれば攻撃されるという怖れを同時に持っているため、自我の投影の中で自我のドラマを信じています。
例えていうなら、「夜の柳が風に揺れたのを幽霊を錯覚するようなこと」であり、そもそもフィクションであるお化け屋敷で、手と手が触れて、怖れを投影して実在さえしないお化けだと双方に思い込んで、お互いのビックリした恐怖の反応で、お互いを恐怖に陥れえいるという笑えないような茶番をしているようなものかもしれません。
レッスン32《私が見ている世界は私(の自我)がつくり出しました。》とは、私たちが見て体験しているて思っている現実は、そもそも自我が投影されたものであり、そのまま自我の投影を見続けるのではなく、投影のない真実の世界を観る選択を私たちはできることを伝えてくれています。
ここまでみてきて、奇跡のコース的な赦し(ゆるし)によるゆるしのレッスンは以下のようになります。
自分自身が心が動揺させられると思う人や出来事について、それそのものが本来の自己(真我)が観ている真実ではなく、「自我という真の自分では全くない無意識の罪悪感が形を変えて投影されたもの」 と見抜きます。
心が動揺するとは、怒りや不安や傷つくという思いや不平不満、理不尽だという感覚、焦り、苛立ち、ムカつく、ストレスを感じる、自己嫌悪感、憂うつなど、様々なネガティブな感情です。
それはあたかも、「自分」がそれを感じていると思い込み、またそれを感じさせる「人」や「出来事」「状況」「症状」といった理由が原因があると、「自我」はそれにリアリティーを与えようとしている「自我のからくり」を見抜きます。
しかし、本当は、そこに理由も原因もなく、自我の無意識の奥底にある罪悪感 (自分は神から祝福されている訳ではない・神と自分は分離している) という誤った信念が、まるでフィルムのように現実のスクリーンに対して投影され、その投影されたスクリーンに映るものを見て、それにリアリティーを与えて動揺し、またその動揺した理由や原因を投影されたスクリーンの人や出来事に探しているという錯覚を見抜きます。(これを自我の幻想と呼び、そこに本来ないもの見ているといいます。)
しかし、目の前には心を動揺させる原因や理由があると自我は思い込んでいる錯覚をやめれないので、聖霊に対して 『今、私が見ていると思っている自我の幻想の錯覚を取り消し、本当の真実を観せてください』 と頼みます。
この、心の動揺を特定し、それの自我の投影を見抜く、そして自我の投影を見ている錯覚を取り消し、真実を観ることを聖霊に依頼する、という一連のプロセスが 「奇跡のコース的な赦し」 となります。(自我的な許しとは根本的に違います。)
あまりにシンプルで、これで本当に何が変わるのか?と思えるくらいシンプルです。
しかし、実践し続けてみると、想像を遥かに超える変革が起こります。
ゆるしに対応したレッスンであれば、そのレッスンが指定する時間をこの奇跡のコース的な赦しに当てます。
自我の投影された錯覚以外の真実とは、自分自身とは神から祝福された存在(すなわち、分離がなく、無意識の罪悪感もない)を確信している状態であり、あらゆる心の動揺もなく、攻撃性も攻撃されるという怖れからも自由な状態です。
あえて言葉に無理やり変換していますが、赦しを実際に繰り返し実践してやってくる安らぎの感覚は、実際には言葉で表現しきれない想像やイメージを越える感覚と体験です。
もちろん、奇跡のコース的な赦しをやり始めた初期の段階では、なんとなくよくわからないけど不思議な感じや、なにかわからないけどなんともいえないリラックスした静けさのある感じとか、漠然とした感じかもしれません。
そういった感覚が訪れたなら、奇跡のコース的な赦しができたかもしれないと思っていいかもしれません。
また、それが訪れないようなら、訪れるまで赦しを実践します。
この時点で、赦しそのものは完了しています。
そしてそれが完了したあと、しばらくして、目の前の現実(つまり心を動揺させたと思っていた理由や原因そのもの)もなぜか不思議な形で解決していきます。
それは自我が考えていた「こうあればいいのに」という解決とは全く違う形でやってくる場合が多々あります。
その時、私たちは、「心を動揺させると思っていた原因や理由」がそもそもそこにはなく、本来そこにないものを見て、本当の現実は観てはいなかったということに気付きます。
「奇跡のコース的な赦し」はとてもシンプルで、尚且つ、実はとてもパワフルなものです。
ゆるしに冠するレッスンの時は、集中してこの奇跡のコース的なゆるしを実践するエクササイズ(練習)がありますが、もちろん、ゆるしに関する直接的なレッスがない日常においても、この奇跡のコース的な赦しの観点から自分と世界を観るようしして、日常的に奇跡のコース的な赦しを実践する癖を習慣にする時、 『 奇跡とは習慣 』 となります。
しかし一方で、自我的な慣れしたしんだ私たちのパターンや発想方からは、全く異質なやり方であるため、習慣として身に付けるまではなかなか難しいとか、わからないとか自我が感じるかもしれません。
レッスンメールでしつこいほどに紹介させていただいている神の使者を何回も読み返すとやっと分かるということもあります。
しかし、奇跡のコース的な赦しを身につけた時、これまでやってきたレッスンがどれほど深いもので、またこれからのレッスンを続けていくことが、どれほど自分の人生を変革していくかについて、確かな確信へと変わります。
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