2014年1月29日水曜日

Lesson 161 について

☆翻訳者からのメッセージ☆

今日のレッスン161はキリストが強く打ち出されているレッスンで、人によっては奇跡のコースのこの「キリスト」がなんとも受け入れ難かったり、しっくりこない感覚を持ってしまう人もいるかと思います。

もちろん、この奇跡のコースはキリスト教とはなんの関係もなく、いわゆる宗教的な偶像崇拝とは真逆のアプローチで、外側に答えや真実を探すのではなく、私たちが自分自身の中に真実を見つける(厳密に言うと「思い出す」)ただのトレーニングです。

今日のレッスンもキリストでなく、「神と人間を媒介し繋ぐ何らかの神聖なる存在」という方が理解しやすければそれでもいいのかもしれません。

ただ、「私たちが自分と世界の真実に目覚めること」がレッスンの目的ならば、キリストというイメージに対して、プラスであれマイナスであれごく個人的なイメージからキリストについて判断することよりも、ただこのレッスンから受けとれるものを受け取り尽くそうという事が何より大切なのではないかと思います。

レッスンをしばらく離れて今日のレッスンをする場合には、今日のレッスンは気持ちを切り替え、「やりきろう」という覚悟みたいなものが必要かもしれません。

今はレッスン161ですが、レッスン365まであと200あまり。

つまり、今年中にレッスン365まで確実に終わります。

私がお伝えできることは、1日1日のひとつひとつのレッスンをとにかくできる範囲で着実にやりきろうとする毎日の積み重ねで、レッスン365までやりきったなら、今年一年で変革する何かとはとてつもないものであるということです。

すでに充分な手応えを感じている方もいるでしょうし、やはり何だかわからないという方もいることでしょう。

確かな手応えとは、一回一回のレッスンをやりきろうとする中で、ふとある時にその変革の兆しが、聖霊の気配が、突如として感じられ始めることなどが起こります。

ただ、それは、毎日の目の前の人間関係や出来事にことごとく「赦し」を実践していくことは不可欠かもしれません。

今日のレッスンも、自我の見方はとりあえず横において、「奇跡のコース的な赦し(http://lesson.spiritual-counseling.info/?p=453)」の概念で目の前の人を観るというひとつのトレーニングの形です。

それぞれのレッスンが伝えている事は365通り違うように見えて、「たったひとつの事」を365の形で伝えていて、しかし、その日のそのレッスンにこそシンクロできる何かがある事は確かです。

もちろん、今日のレッスン161も、今日の私たち一人ひとりの中にある無意識の扉を開けるひとつの鍵だと思います。

Lesson 161

《神聖な「神の子」よ、私にあなたの祝福を与えてください。》
Give me your blessing, holy Son of God.


今日、私たちは違ったやり方で練習します。私たちの怖れが消えて愛に場所を差し出すことができるように、私たちの怒りに対して抵抗する立場をとります。
Today we practice differently, and take a stand against our anger, that our fears may disappear and offer room to love.

ここに単純な言葉による救いがあり、私たちはそれらの単純な言葉で今日の新しい見方を練習します。
Here is salvation in the simple words in which we practice with today's idea.

ここに(自我の)誘惑に対する答えがあり、この答えは、以前は怖れと怒りが支配していた場所に「キリスト」を招き入れることに失敗することは決してありません。
Here is the answer to temptation which can never fail to welcome in the Christ where fear and anger had prevailed before.

ここにおいて「あがない」が完璧にされ、この世界は安全に通過され、今や「天国」が回復されます。
Here is Atonement made complete, the world passed safely by and Heaven now restored.

ここに「神を代弁する声」の答えがあります。
Here is the answer of the Voice for God.




完璧な抽象化はマインドの自然な状態です。
Complete abstraction is the natural condition of the mind.

しかし、マインドの一部は今不自然になっています。
But part of it is now unnatural.

マインドはすべてものを一つのものとして見ません。
It does not look on everything as one.

その代わりに全体の断片だけを見ます。というのは、こうすることによってのみ、マインドはあなたが見ている部分的な世界を作り出すことができるからです。
It sees instead but fragments of the whole, for only thus could it invent the partial world you see.

すべてを見ることの目的は、あなたが見たいものをあなたに見せることにあります。
The purpose of all seeing is to show you what you wish to see.

すべてが聞こえることはあなたのマインドにそれが聞きたい音をもたらします。
All hearing but brings to your mind the sounds it wants to hear.



このようにして具体的な細目が作られました。
Thus were specifics made.

そして今、私たちが練習で使わなければならないのは具体的な細目です。
And now it is specifics we must use in practicing.

私たちはそれらを「聖霊」に与えます。それは、私たちがそれらに与えた目的とは異なる目的のために「聖霊」が活用できるようにするためです。
We give them to the Holy Spirit, that He may employ them for a purpose which is different from the one we gave to them.

しかしながら、「聖霊」は異なった視点から私たちに教えるために、私たちが作ったものしか使うことはできません。そうすることによって、あらゆることには異なった使い方があることを私たちは見ることができます。
Yet He can use but what we made, to teach us from a different point of view, so we can see a different use in everything.



一人の兄弟はすべての兄弟です。
One brother is all brothers.

一つ一つのマインドにはすべてのマインドが含まれています。というのは、すべてのマインドは一つだからです。
Every mind contains all minds, for every mind is one.

それが真実です。
Such is the truth.

しかし、これらの思いは創造の意味を明確にするでしょうか。
Yet do these thoughts make clear the meaning of creation?

これらの言葉は完璧な明確性をあなたにもたらすでしょうか。
Do these words bring perfect clarity with them to you?

これらの言葉は単なる空疎な音だけのように思われます。たぶん美しいかもしれません、感情的には正しいかもしれません、しかし、基本的には理解されず、理解可能でもありません。
What can they seem to be but empty sounds; pretty, perhaps, correct in sentiment, yet fundamentally not understood nor understandable.

自らに具体的に考えることを教えたマインドは、それはすべてを包括するという意味での抽象化をもはや把握することはできません。
The mind that taught itself to think specifically can no longer grasp abstraction in the sense that it is all-encompassing.

私たちは多くのことを学ぶために、少しだけ見る必要があります。
We need to see a little, that we learn a lot.



私たちの自由を制限しているように私たちが感じ、私たちを苦しませ、最後に私たちの生命を吹き消すのは肉体であるように思われます。
It seems to be the body that we feel limits our freedom, makes us suffer, and at last puts out our life.

しかし、肉体は怖れの具体的な形の象徴に過ぎません。
Yet bodies are but symbols for a concrete form of fear.

象徴のない怖れは反応を要求しません。というのは、象徴は意味のないものを表すことができるからです。
Fear without symbols calls for no response, for symbols can stand for the meaningless.

愛は真実であるために象徴を必要とはしません。
Love needs no symbols, being true.

しかし、怖れは間違っているために具体意的なものに付きます。
But fear attaches to specifics, being false.



肉体は攻撃しますがマインドは攻撃しません。
Bodies attack, but minds do not.

この思いは、このことが頻繁に強調されているテキストを思い出させることは確かです。
This thought is surely reminiscent of our text, where it is often emphasized.

これが理由で肉体は簡単に怖れの象徴になります。
This is the reason bodies easily become fear's symbols.

あなたは何度も肉体の向こうを見るように強く促されてきました。というのは、見える肉体は、「キリスト」のヴィジョンには見えない愛の"敵"の象徴を提示するからです。
You have many times been urged to look beyond the body, for its sight presents the symbol of love's "enemy" Christ's vision does not see.

肉体は攻撃の標的です。というのは、誰もマインドを憎んでいるとは考えないからです。
The body is the target for attack, for no one thinks he hates a mind.

しかしながら、マインド以外の何が肉体に攻撃するように命じるでしょうか。
Yet what but mind directs the body to attack?

怖れについて考えるもの以外の何が怖れの座であり得るでしょうか。
What else could be the seat of fear except what thinks of fear?




憎しみは具体的です。
Hate is specific.

攻撃されるべき何かがなければなりません。
There must be a thing to be attacked.

敵は触れることができ、見ることができ、聞くことができ、究極的には殺すことができるような形で知覚されなければなりません。
An enemy must be perceived in such a form he can be touched and seen and heard, and ultimately killed.

憎しみがものの上に休息するとき、「神の声」が死は存在しないと宣言するのと同じくらいの確実さで死を要求します。
When hatred rests upon a thing, it calls for death as surely as God's Voice proclaims there is no death.

怖れは飽くなき食欲を持ち、その目が触れるものすべてを食いつくし、すべてのものの中にそれ自身を見て、自分自身におそいかかり破壊したい衝動に駆られます。
Fear is insatiable, consuming everything its eyes behold, seeing itself in everything, compelled to turn upon itself and to destroy.




兄弟を肉体として見るものは兄弟を怖れの象徴として見ています。
Who sees a brother as a body sees him as fear's symbol.

そして彼は攻撃します。なぜなら、彼が見るものは彼自身の怖れが外在化したもので、今にも攻撃する態勢を取っていて、再び彼と一体になろうとして唸り声を上げています。
And he will attack, because what he beholds is his own fear external to himself, poised to attack, and howling to unite with him again.

投影された怖れが必ず生み出す強烈な怒りを誤って判断しないでください。
Mistake not the intensity of rage projected fear must spawn.

それは激怒して金切り声をあげ、その怒りを作った人に手を伸ばして彼を貪り食いたいという狂気の願望を抱いて空中をかきむしります。
It shrieks in wrath, and claws the air in frantic hope it can reach to its maker and devour him.




これを肉体の目は、「天国」が大切にし、天使たちが愛し、「神」が完璧に創造された存在の中に見ます。
This do the body's eyes behold in one whom Heaven cherishes, the angels love and God created perfect.

これが彼の実在です。
This is his reality.

そして、「キリスト」のヴィジョンの中に彼の美しさが実に神聖で美しい形で反映されているために、あなたは彼の足もとにひざまずかざるをえません。
And in Christ's vision is his loveliness reflected in a form so holy and so beautiful that you could scarce refrain from kneeling at his feet.

しかしながら、あなたはそうする代わりに彼の手をとるでしょう。というのは、彼をこのように見る目にはあなたは彼と同じように見えるからです。
Yet you will take his hand instead, for you are like him in the sight that sees him thus.

彼に対する攻撃はあなたに対する敵対行為です。というのは、あなたは彼の手中にあなたの救いがあることを知覚しないからです。
Attack on him is enemy to you, for you will not perceive that in his hands is your salvation.

彼にこれだけを依頼してください。そうすれば、彼はそれをあなたに与えてくれるでしょう。
Ask him but for this, and he will give it to you.

あなたの怖れを象徴化しないようにと彼に依頼してください。
Ask him not to symbolize your fear.

あなたは愛がそれ自身を破壊することを依頼したいでしょうか。
Would you request that love destroy itself?

それとも、愛があなたに露わされて、あなたを解放して欲しいでしょうか。
Or would you have it be revealed to you and set you free?



今日、私たちは以前にも試みた形で練習をします。
Today we practice in a form we have attempted earlier.

あなたの準備体制は今より近いところまで来ていて、あなたは今日「キリスト」のヴィジョンにさらに近づくことでしょう。
Your readiness is closer now, and you will come today nearer Christ's vision.

それに到達することを意図すれば、あなたは今日それに成功するでしょう。
If you are intent on reaching it, you will succeed today.

そして、いったん成功すれば、あなたにはあなたの肉体の目が引き出す証言を受け容れる気持ちはなくなるでしょう。
And once you have succeeded, you will not be willing to accept the witnesses your body's eyes call forth.

あなたが見るものは、あなたが思い出すいにしえのメロディーをあなたに歌うでしょう。
What you will see will sing to you of ancient melodies you will remember.

あなたは「天国」で忘れられてはいません。
You are not forgot in Heaven.

あなたはそれを思い出したくないでしょうか。
Would you not remember it?




すべての兄弟の象徴として一人の兄弟を選び、彼に救いを依頼してください。
Select one brother, symbol of the rest, and ask salvation of him.

彼を最初はできるだけはっきりと見てください。あなたが慣れているあの同じ形で見てください。
See him first as clearly as you can, in that same form to which you are accustomed.

彼の顔を見て、手を見て、足を見て、彼が着ている衣服を見てください。
See his face, his hands and feet, his clothing.

彼が微笑むのを見つめてください。そして、彼が良くするおなじみのしぐさを見てください。
Watch him smile, and see familiar gestures which he makes so frequently.

それから、次のことについて考えてみてください。
Then think of this:

あなたが今見ているものは、あなたの罪のすべてをゆるすことができる人を見ることを不可能にしています。彼の神聖な手はあなたの手を突き刺しているくぎを取り去ることができ、血の出ているあなたの頭の上にあなたが置いたいばらの冠を持ち上げることができます。
What you are seeing now conceals from you the sight of one who can forgive you all your sins; whose sacred hands can take away the nails which pierce your own, and lift the crown of thorns which you have placed upon your bleeding head.

彼があなたを解放することができるように、次のことを彼に依頼してください。
Ask this of him, that he may set you free:


神聖な「神の子」よ、あなたの祝福を私に与えてください。
Give me your blessing, holy Son of God. 
私は「キリスト」の目であなたを見て、あなたの中に私の完璧な無罪性を見たいのです。
I would behold you with the eyes of Christ, and see my perfect sinlessness in you.


そして、「彼」はあなたが呼びかけた「存在」に応えるでしょう。
And He will answer Whom you called upon.

というのは、「彼」はあなたの中に「神に代わる声」を聞き、あなた自身の声で答えるからです。
For He will hear the Voice for God in you, and answer in your own.

あなたが単なる肉と骨として見ていた彼を見てください。そして、「キリスト」があなたのところにやって来たことを認識してください。
Behold him now, whom you have seen as merely flesh and bone, and recognize that Christ has come to you.

今日の新しい見方は怒りと怖れからあなたを安全に脱出させてくれます。
Today's idea is your safe escape from anger and from fear.

兄弟を攻撃したい誘惑に駆られ、彼の中にあなたの怖れの象徴を知覚したならば、必ずそれをすぐに使うようにしてください。
Be sure you use it instantly, should you be tempted to attack a brother and perceive in him the symbol of your fear.

すると、彼が突然、敵から救い主に変貌し、悪魔から「キリスト」に変貌するのを見ることでしょう。
And you will see him suddenly transformed from enemy to savior; from the devil into Christ.



☆Lesson 154 以降を取り組むにあたっての翻訳者からのメッセージ
http://mmiracles-light.blogspot.jp/2014/01/lesson-154_6.html

☆Lesson 161についての翻訳者からのメッセージ
http://acim-workbook.blogspot.jp/2014/01/lesson-161_29.html

☆今日のレッスンを聴くにはこちら
http://acim.org/Lessons/lesson.html?lesson=161

2014年1月28日火曜日

Lesson 160 について

☆翻訳者からのメッセージ☆

この半年近く、私たちはこの奇跡のコースのレッスンをやってきました。

人によっては、自我の抵抗にあって、レッスンをわかりずらいと感じたり、レッスンそのものがこんなことをやっても意味がないように思えたり、レッスンをやめたいと思ったことも幾度となくあったのではないかと思います。

実際、奇跡のコースを学ぶ過程で、レッスン160くらいまでがリアルレッスンを含め混乱するプロセスを伴い、それ以降からがやっと少しずつ視界が開けてレッスンが楽しくなるプロセスを辿る人が多いようです。

それでも半年近くをレッスンに費やしてレッスン160まできました。

そして、これ以降のレッスンは、喜びに満ちたものだと本当に体感することが増していくでしょうし、人生の様々な場面で奇跡(もちろん、奇跡のコース的な「奇跡」の意味で)を目撃することになるでしょう。

皆さん一人一人の日々のレッスンへの疑問や葛藤や疑いをもちろんすべて覚悟しながら、毎日ひたすら送信ボタンを押してきました。

(↑ブログ作成者は、師=翻訳者より、毎日メールでレッスンを送っていただいており、それを転載しています。)

しかし、私は確信しています。

途中、まるで山や谷があるように思えたり、蕀の道を歩いているように思えても、最後にはそんなものさえなかったと気づく時が来ることを。

その時、私たちは必ず奇跡が当たり前であることを確認しあい、そもそも約束されていたものの本当の価値を思いだし、それを分かち合う時が来るということを。

問題だと思っていたものがそもそも問題でさえなかった事がわかり、何かが足りないとか何かが叶わないと思っていたことそのものがそこにないものを見ていたことを知り、ただ人生が安らぎと喜び以外のものがありえないということを体感することを。

もうすでにいま手にしている奇跡を、「ああそういえばすでにあのときに手にしていたんだね」と笑う時が来ることを。

Lesson 160

 《私は家にいます。怖れはここでは見知らぬ存在です。》
I am at home. Fear is the stranger here.



(自我に基づいた)「怖れ」は(神からの)「愛」の在り方にとっては見知らぬ存在です。
Fear is a stranger to the ways of love.

怖れに帰属意識を抱けば、あなたはあなた自身にとって見知らぬ存在となるでしょう。
Identify with fear, and you will be a stranger to yourself.

かくして、あなた(の本質=本来的な有り様)はあなたにとって知られていない存在になります。
And thus you are unknown to you.

あなたの「自己」であるものは、自分は実在するけれどあなた自身とは異なっていると考えるあなたの部分にとって異邦人であり続けます。
What is your Self remains an alien to the part of you which thinks that it is real, but different from yourself.

そのような状況において正気でいることができる人がいるでしょうか。
Who could be sane in such a circumstance?

(単なる自我の無意識の投影を見ているに過ぎないものを現実だと思い込むという意味において、知覚が)狂っている人以外の誰が、自分は自分の本質ではないと信じ、自分自身に対して否定的な価値判断をすることができるでしょうか。
Who but a madman could believe he is what he is not, and judge against himself?




私たちの真っただ中に見知らぬ存在がいますが、「それ」(=自我)は真実にとってあまりにも異質な考えから来ているために、異なった言語を話し、真実が知らない世界を見て、真実が無意味であると見なすものを理解します。
There is a stranger in our midst, who comes from an idea so foreign to the truth he speaks a different language, looks upon a world truth does not know, and understands what truth regards as senseless.

さらに奇妙なことに、「それ」は誰のところにやって来るのかを認識せず、にもかかわらず、やってきたその家は自分の家であると主張しますが、「それ」は今や家にいる異邦人なのです。
Stranger yet, he does not recognize to whom he comes, and yet maintains his home belongs to him, while he is alien now who is at home.

しかしながら、次のように言うことはなんと簡単なことでしょうか。「これは私の家です。私はここに所属します。そして、狂っている人がそうしなければならないと言ったからといって私はこの家を去りません。」
And yet, how easy it would be to say, "This is my home. Here I belong, and will not leave because a madman says I must."




これを言わないどんな理由があるというのでしょうか。
What reason is there for not saying this?

その理由は、あなたがあなたの場所をとって自分のものにするようにと「この見知らぬ存在」(=自我)を招き入れ、あなたをあなた自身に対しての見知らぬ存在にすることを許したからではないでしょうか。
What could the reason be except that you had asked this stranger in to take your place, and let you be a stranger to yourself?

(自我に錯覚させられて)自分の好みに合った別な家があると思わなければ、不必要に自分の家をなくしてしまう人がいったいいるでしょうか。
No one would let himself be dispossessed so needlessly, unless he thought there were another home more suited to his tastes.




この「見知らぬ存在」とは誰でしょうか。
Who is the stranger?

それは「怖れ」でしょうか。それとも、「神」が「神の子」に提供してくれた家にふさわしくないあなたでしょうか。
Is it fear or you who are unsuited to the home which God provided for His Son?

怖れは「神自身のもの」で、「神」に似せて創造されているのでしょうか。
Is fear His Own, created in His likeness?

愛が(愛そのものとして)完結するのは怖れでしょうか。そして、「愛」は「怖れ」によって完結されるのでしょうか。
Is it fear that love completes, and is completed by?

愛と怖れの避難所になることができる家はありません。
There is no home can shelter love and fear.

愛と怖れは共存することはできません。
They cannot coexist.

もしもあなたが実在するならば、怖れは(無意識の罪悪感の投影という自我の)幻想であるに違いありません。
If you are real, then fear must be illusion.

そして、怖れが実在するならば、あなたはまったく存在していません。
And if fear is real, then you do not exist at all.




とするならば、なんと簡単にこの疑問は解決することでしょうか。
How simply, then, the question is resolved.

怖れている人が自分自身を否定して言ったのです。「私はここでは見知らぬ存在です。ですから、私は私の家を去って私よりも私らしい人に家を明け渡し、私のものであると思っていたものをすべてその存在(=自我)に与えることにします。」
Who fears has but denied himself and said, "I am the stranger here. And so I leave my home to one more like me than myself, and give him all I thought belonged to me."

今やその人は必然的に流浪の身となり、自分が誰であるかが分からず、その人はその人自身ではないということ、そして、その人の家はその人の家でなくなってしまったということ以外はすべてのことに確信を持つことができません。
Now is he exiled of necessity, not knowing who he is, uncertain of all things but this; that he is not himself, and that his home has been denied to him.




その人は今や何を探すのでしょうか。
What does he search for now?

その人は何を発見できるでしょうか。
What can he find?

その人自身にとっての見知らぬ存在は、どこを探しても家を見つけることはできません。というのは、その人は家に帰ることを不可能にしてしまったからです。
A stranger to himself can find no home wherever he may look, for he has made return impossible.

その人は道に迷ってしまいました。しかし、奇跡(≒赦しによって単なる自我の投影を現実と錯覚していたのを取り消し、魂本来の見方で『本当の現実を見る』ことに移行すること)がその人を探し出してその人は今や見知らぬ存在ではないことをその人に示してくれるでしょう。
His way is lost, except a miracle will search him out and show him that he is no stranger now.

奇跡はやってきます。
The miracle will come.

というのは、その人の家にその人の(本来の)「自己」が残っているからです。
For in his home his Self remains.

その人の「自己」は見知らぬ存在を招き入れてはおらず、異質な思いを「それ自身」であると理解してはいません。
It asked no stranger in, and took no alien thought to be Itself.

そして、あなたの「自己」は「それ自身のもの」を、何が「それ自身のもの」であるかを認識して「それ自身」に呼びます。
And It will call Its Own unto Itself in recognition of what is Its Own.



この見知らぬ存在は誰でしょうか。
Who is the stranger?

「それ」はあなたの「自己」が呼ばない存在ではないでしょうか。
Is he not the one your Self calls not?

あなたは今、あなたの中心にいるこの見知らぬ存在を認識することができません。というのは、あなたは「それ」にあなたが占めるべき正当な場所を与えてしまったからです。
You are unable now to recognize this stranger in your midst, for you have given him your rightful place.

しかしながら、あなたの「自己」は、「神」が「自分の子」について確信を持っているのと同じくらい、それ自身のものについて確信を持っています。
Yet is your Self as certain of Its Own as God is of His Son.

「神」が創造に関して混乱するはずがありません。
He cannot be confused about creation.

「神」は「神」に所属するものについて確信を持っています。
He is sure of what belongs to Him.

見知らぬ存在を、「神」の叡知と「神の子」の実在の間にさしはさむことはできません。
No stranger can be interposed between His knowledge and His Son's reality.

「神」は見知らぬ存在について知りません。
He does not know of strangers.

「神」は「自分の子」について確信を持っています。
He is certain of His Son.




「神」の確信で十分です。
God's certainty suffices.

「神」が「自分の子」であると知っている存在は、「神」が「自分の子」を永遠に置かれた場所に所属しています。
Who He knows to be His Son belongs where He has set His Son forever.

「この見知らぬ存在は誰ですか」と聞いたあなたに、「神」は応えたのです。
He has answered you who ask, "Who is the stranger?"

「神の声」があなたはあなたの「父」にとって見知らぬ存在ではなく、あなたの「創造主」もあなたにとって見知らぬ存在ではないと保証するのを、静かに確信をもって聞いてください。
Hear His Voice assure you, quietly and sure, that you are not a stranger to your Father, nor is your Creator stranger made to you.

「神」が一緒にしたものは永遠にひとつであり続け、「神」においてくつろいでおり、「神自身」にとって見知らぬ存在ではありません。
Whom God has joined remain forever one, at home in Him, no stranger to Himself.



今日、私たちは「キリスト」が「自分」に属するものを求めてこの世界を探究するためにやって来たことに感謝をささげます。
Today we offer thanks that Christ has come to search the world for what belongs to Him.

「キリスト」のヴィジョンは見知らぬ存在(=自我)を見ることはなく、「キリスト自身のもの」を見て、その人たちと喜んで一体になります。
His vision sees no strangers, but beholds His Own and joyously unites with them.

その人たちは「キリスト」を見知らぬ存在として見ます。というのは、その人たちは自分自身を認識していないからです。
They see Him as a stranger, for they do not recognize themselves.

しかしながら、その人たちが「キリスト」を歓迎するとき、その人たちは思い出します。
Yet as they give Him welcome, they remember.

そして、「キリスト」はその人たちが所属する家へとその人たちを再び優しく導いていきます。
And He leads them gently home again, where they belong.



「キリスト」は誰のことも忘れません。
Not one does Christ forget.

あなたの家が確立されたときと同じように完全で完璧であるようにするために、「キリスト」はあなたが思い出すべきすべての人をあなたに与えます。
Not one He fails to give you to remember, that your home may be complete and perfect as it was established.

「キリスト」はあなたを忘れてはいません。
He has not forgotten you.

しかし、あなたは、「キリスト」と同じようにすべての人を見るようになるまでは、「キリスト」を思い出すことはありません。
But you will not remember Him until you look on all as He does.


兄弟を否定する人は「キリスト」を否定しています。そしてそのようにして、それによって彼の「自己」が明確に認識され、その人の家が思い出され、救いがやって来る視力の贈り物を受け取ることを拒絶します。
Who denies his brother is denying Him, and thus refusing to accept the gift of sight by which his Self is clearly recognized, his home remembered and salvation come.



☆Lesson 154 以降を取り組むにあたっての翻訳者からのメッセージ
http://mmiracles-light.blogspot.jp/2014/01/lesson-154_6.html

☆Lesson 160についての翻訳者からのメッセージ
http://acim-workbook.blogspot.jp/2014/01/lesson-160_28.html

☆今日のレッスンを聴くにはこちら
http://acim.org/Lessons/lesson.html?lesson=160

2014年1月25日土曜日

Lesson 159

《私は受け取った奇跡を与えます。》
I give the miracles I have received.



誰も自分が受け取っていないものを与えることはできません。
No one can give what he has not received.

ものを与えるためには、まず、あなたがそれを自分で所有している必要があります。
To give a thing requires first you have it in your own possession.

ここでは、「天国」の法則とこの世界の法則は一致しています。
Here the laws of Heaven and the world agree.

しかし、ここはこれらの二つの法則が分かれるところでもあります。
But here they also separate.

この世界は、ものを所有するためにはそれは保持されなければならないと信じています。
The world believes that to possess a thing, it must be kept.

救いはそれと反対のことを教えます。
Salvation teaches otherwise.

与えるということは、あなたが受け取ったことを認識する方法です。
To give is how to recognize you have received.

与えることは、あなたが持っているものはあなたのものであるということの証明です。
It is the proof that what you have is yours.




癒しを与えるときあなたが癒されるということをあなたは理解しています。
You understand that you are healed when you give healing.

ゆるすとき、あなたはゆるしをあなた自身の中で達成されたものとして受け容れます。
You accept forgiveness as accomplished in yourself when you forgive.

あなたはあなたの兄弟をあなた自身として認識し、かくして、あなたは全体であることを知覚します。
You recognize your brother as yourself, and thus do you perceive that you are whole.

あなたが与えることができない奇跡はありません。というのは、すべての奇跡があなたに与えられているからです。
There is no miracle you cannot give, for all are given you.

奇跡が横たえられているあなたのマインドの貯蔵庫を開くことによって、そして、そこにある奇跡を与えることによって、いま奇跡を受け取ってください。
Receive them now by opening the storehouse of your mind where they are laid, and giving them away.



「キリスト」のヴィジョンは奇跡です。
Christ's vision is a miracle.

それはそれ自身を超越したはるか彼方からやってきます。というのは、それは永遠の愛を反映し、決して死ぬことはないけれども不明瞭なままにされてきた愛の再生を反映するからです。
It comes from far beyond itself, for it reflects eternal love and the rebirth of love which never dies, but has been kept obscure.

「キリスト」のヴィジョンは「天国」を描きます。というのは、それは「天国」に非常に似ている世界が見えるために「神」が完全なものとして創造されたものがそこで鏡のように映しだされるからです。
Christ's vision pictures Heaven, for it sees a world so like to Heaven that what God created perfect can be mirrored there.

この世界が提示する黒ずんだガラスはばらばらに壊れた部分になったゆがんだイメージを見せることができるだけです。
The darkened glass the world presents can show but twisted images in broken parts.

実在の世界は「天国」の罪のなさを描きます。
The real world pictures Heaven's innocence.




「キリスト」のヴィジョンは、すべての奇跡がその中で生まれる奇跡です。
Christ's vision is the miracle in which all miracles are born.

それは奇跡の源であり、あなたが与える一つ一つの奇跡と共に残り、それでもなお、あなたのものであり続けます。
It is their source, remaining with each miracle you give, and yet remaining yours.

「キリスト」のヴィジョンは絆であり、この絆によって与えるものと受け取るものが「天国」において一つであるように、ここ地上においても延長されて一体になるのです。
It is the bond by which the giver and receiver are united in extension here on earth, as they are one in Heaven.

「キリスト」は誰の中にも罪を見ることはしません。
Christ beholds no sin in anyone.

そして、「キリスト」の視力においては、罪のない者たちはひとつです。
And in His sight the sinless are as one.

彼らの神聖性は「彼の父とキリスト自身」によって与えられたのです。
Their holiness was given by His Father and Himself.




「キリスト」のヴィジョンは二つの世界にかかる橋です。
Christ's vision is the bridge between the worlds.

そして、その力によって、あなたはこの世界からゆるしによって神聖にされた世界へと安全に運ばれるであろうことを信頼することができます。
And in its power can you safely trust to carry you from this world into one made holy by forgiveness.

この世界では密度が高い固体のように見えるものもそちらの世界では単なる陰に過ぎません。透明で、かすかに見ることができ、時には忘れられ、それらの彼方に輝いている光を決して暗くすることができないものです。
Things which seem quite solid here are merely shadows there; transparent, faintly seen, at times forgot, and never able to obscure the light that shines beyond them.

ヴィジョンが神聖性を回復し、盲目の人が見ることができます。
Holiness has been restored to vision, and the blind can see.




「聖霊」の一つの贈り物は次のものです。あなたの幸せに貢献できるすべてのものを得ることができるという完璧な確信をもってアピールできる宝物の蔵です。
This is the Holy Spirit's single gift; the treasure house to which you can appeal with perfect certainty for all the things that can contribute to your happiness.

すべてのものがすでにここに横たわっています。
All are laid here already.


すべてのものは依頼さえすれば受け取ることができます。
All can be received but for the asking.

ここではドアに錠はおりておらず、誰もどんなに小さな要請でも、もっとも緊急な必要事項でも願いを却下されることはありません。
Here the door is never locked, and no one is denied his least request or his most urgent need.

この黄金の「キリストの」宝物の蔵にはすでに癒されていない病気はなく、充足されていない不足もなく、解決されていない必要性もありません。
There is no sickness not already healed, no lack unsatisfied, no need unmet within this golden treasury of Christ.



ここではこの世界が作られたときに何が失われたかをこの世界は覚えています。
Here does the world remember what was lost when it was made.

というのは、ここで、この世界は修理され、再び新しいものとして作られますが、異なった光の中でそれがなされるからです。
For here it is repaired, made new again, but in a different light.

罪の家となる予定であったものは救いのセンターとなり、慈悲心の炉床となり、そこでは苦しみは癒され歓迎されます。
What was to be the home of sin becomes the center of redemption and the hearth of mercy, where the suffering are healed and welcome.

救いが待っているこの新しい家から誰も追い返されることはありません。
No one will be turned away from this new home, where his salvation waits.

ここを訪れる人にとって、誰も見知らぬ人ではありません。
No one is stranger to him.

歓迎されていることを彼が受け容れるという贈り物以外に、誰も彼に何も求めることはありません。
No one asks for anything of him except the gift of his acceptance of his welcoming.




「キリスト」のヴィジョンが、ゆるしのユリが根付くことができる神聖な土壌です。
Christ's vision is the holy ground in which the lilies of forgiveness set their roots.

これがゆるしというユリの家です。
This is their home.

彼らをこの場所からこの世界へと持ち帰ることはできますが、彼らはこの世界の滋養のない浅い土壌では決して育つことはできません。
They can be brought from here back to the world, but they can never grow in its unnourishing and shallow soil.

彼らには光と温かさが必要であり、「キリスト」の慈善の心が提供する優しいケアが必要です。
They need the light and warmth and kindly care Christ's charity provides.

彼らには「キリスト」が彼らを見つめるときの愛のまなざしが必要です。
They need the love with which He looks on them.

そして、彼らは「キリスト」のメッセンジャーとなり、受け取ったように与えるのです。
And they become His messengers, who give as they received.




そこにある宝物が増えるように、「キリスト」の宝物の蔵から宝物を取ってください。
Take from His storehouse, that its treasures may increase.

「キリスト」のユリは、この世界に持ち帰られても彼らの家を離れることはありません。
His lilies do not leave their home when they are carried back into the world.

彼らの根は残ります。
Their roots remain.

彼らは彼らの源を離れませんが、彼らと共に源の恩恵を持ってきて、この世界を彼らがそこからやってきて、新たなる芳香をわがものとして再び帰っていく世界と同じような庭園に変えます。
They do not leave their source, but carry its beneficence with them, and turn the world into a garden like the one they came from, and to which they go again with added fragrance.

今、彼らは二回祝福されました。
Now are they twice blessed.

彼らが「キリスト」から持ってきたメッセージは配達され、そして、彼らのところに戻ってきたのです。
The messages they brought from Christ have been delivered, and returned to them.

そして、彼らはそれらのメッセージを喜んで「キリスト」に返します。
And they return them gladly unto Him.



あなたが奇跡を与えるためにあなたのために設置された奇跡の店を見てください。
Behold the store of miracles set out for you to give.

「神」がそれをあなたに与えるようにと指定されたのであれば、あなたはその贈り物を受ける価値があるのではないでしょうか。
Are you not worth the gift, when God appointed it be given you?

「神の子」を価値判断せずに、「神」が確立された道に従ってください。
Judge not God's Son, but follow in the way He has established.

「キリスト」はゆるされた世界の夢を見ました。
Christ has dreamed the dream of a forgiven world.

それは「キリスト」の贈り物であり、それによって、死から生命へ、絶望から希望へという甘美な移行が可能になります。
It is His gift, whereby a sweet transition can be made from death to life; from hopelessness to hope.

一瞬の間、「キリスト」と一緒に夢を見ることにしましょう。
Let us an instant dream with Him.

「キリスト」の夢は私たちを真実へと目覚めさせてくれます。
His dream awakens us to truth.

「キリスト」のヴィジョンは、「神」の中にある私たちの失われていない永続的な神聖性へと戻るための手段を与えてくれます。
His vision gives the means for a return to our unlost and everlasting sanctity in God.



☆Lesson 154 以降を取り組むにあたっての翻訳者からのメッセージ
http://mmiracles-light.blogspot.jp/2014/01/lesson-154_6.html

☆今日のレッスンを聴くにはこちら
http://acim.org/Lessons/lesson.html?lesson=159

2014年1月16日木曜日

Lesson 158

《今日、私は受け取るように与えることを学びます。》
Today I learn to give as I receive.


あなたは何を与えられたでしょうか。
What has been given you?

あなたはマインドであり、「マインド」の中に存在し、純粋にマインドだけであり、愛から創造されたがゆえに永遠に無罪であり、まったく恐れていないマインドであるという叡知です。
The knowledge that you are a mind, in Mind and purely mind, sinless forever, wholly unafraid, because you were created out of love.

また、あなたはあなたの「源」から離れてはおらず、創造されたままであるということです。
Nor have you left your Source, remaining as you were created.

これはあなたが失うことはできない叡知としてあなたに与えられました。
This was given you as knowledge which you cannot lose.

それはまた、すべての生きとし生けるものにも与えられました。というのは、この叡知によってのみすべてのものは生きることができるからです。
It was given as well to every living thing, for by that knowledge only does it live.




あなたはこれらすべてのことを受け取りました。
You have received all this.

この世界を歩いている存在でこれを受け取っていないものはいません。
No one who walks the world but has received it.

あなたが与えるのはこの叡知ではありません。というのは、それは創造が与えたものだからです。
It is not this knowledge which you give, for that is what creation gave.

これらすべてのことを学ぶことはできません。
All this cannot be learned.

それでは、今日、あなたは与えるために何を学ぶことができるのでしょうか。
What, then, are you to learn to give today?

昨日の私たちのレッスンはテキストの最初の部分に見出される一つのテーマを呼び起こしました。
Our lesson yesterday evoked a theme found early in the text.

体験はヴィジョンを共有するのと同じような形で直接的に共有することはできないということでした。
Experience cannot be shared directly, in the way that vision can.

「父と子」は一つであるという啓示は時がくればすべてのマインドにやって来るでしょう。
The revelation that the Father and the Son are one will come in time to every mind.

しかしながら、その時はマインドそのものによって決定されるのであって、教えられるものではありません。
Yet is that time determined by the mind itself, not taught.




その時はすでに設定されています。
The time is set already.

それはきわめて恣意的なもののように見えます。
It appears to be quite arbitrary.

しかしながら、誰であれ道を歩むものが取る一歩で偶然のものはありません。
Yet there is no step along the road that anyone takes but by chance.

その人はまだその道を歩き始めてはいませんが、その一歩はすでにその人によって踏み出されているのです。
It has already been taken by him, although he has not yet embarked on it.

というのは、時間は一つの方向に行くようにしか見えないからです。
For time but seems to go in one direction.

私たちはすでに終わっている旅に出かけるのです。
We but undertake a journey that is over.

しかしながら、その旅は私たちにとっていまだに未知の未来をもっているように見えます。
Yet it seems to have a future still unknown to us.



時間はごまかしであり、手品であり、広大な幻想であって、その幻想の中で様々な人物がまるで魔法のように行ったり来たりします。
Time is a trick, a sleight of hand, a vast illusion in which figures come and go as if by magic.

しかしながら、外側に見えるものの背後には一つの計画があって、それは変わることはありません。
Yet there is a plan behind appearances that does not change.

脚本は書かれています。
The script is written.

体験がいつ訪れてあなたの疑惑に終止符を打つかは設定されています。
When experience will come to end your doubting has been set.

というのは、私たちは旅が終わったところから旅を見て、旅を振り返り、もう一度その旅をすることを想像し、心の中でその旅で起こったことを反芻します。
For we but see the journey from the point at which it ended, looking back on it, imagining we make it once again; reviewing mentally what has gone by.



教師は体験を与えることはしません。なぜなら、教師は体験を学ばなかったからです。
A teacher does not give experience, because he did not learn it.

体験はそれが指定された時間に自らを教師に露わにしました。
It revealed itself to him at its appointed time.

しかし、ヴィジョンが彼の贈り物です。
But vision is his gift.

これを彼は直接与えることができます。というのは、「キリスト」は依頼する誰にでも与えることができるヴィジョンをもっているがゆえに、「キリスト」の叡知は失われていないからです。
This he can give directly, for Christ's knowledge is not lost, because He has a vision He can give to anyone who asks.

「父の意志」と「キリスト」の意志は叡知において一緒になります。
The Father's Will and His are joined in knowledge.

しかしながら、「キリストのマインド」もそれを見ているがゆえに「聖霊」が見ている一つのヴィジョンがあります。
Yet there is a vision which the Holy Spirit sees because the Mind of Christ beholds it too.



ここで疑惑と影の世界が触れることのできないものと一緒になります。
Here is the joining of the world of doubt and shadows made with the intangible.

ここにこの世界の中での静かな場所があって、それはゆるしと愛によって神聖なものになっています。
Here is a quiet place within the world made holy by forgiveness and by love.

ここではすべての矛盾が妥協しています。というのは、ここで旅が終わるからです。
Here are all contradictions reconciled, for here the journey ends.

体験は、学ばれることもなく、教えられることもなく、見られることもなく、「ただそこに在る」ものです。
Experience–unlearned, untaught, unseen–is merely there.

これは私たちの目標を超越しています。というのは、それは達成される必要のあるものを超越しているからです。
This is beyond our goal, for it transcends what needs to be accomplished.

私たちの関心事は「キリスト」のヴィジョンです。
Our concern is with Christ's vision.

これを私たちは達成することができます。
This we can attain.




「キリスト」のヴィジョンには一つの法則があります。
Christ's vision has one law.

それは肉体を見ることはせず、肉体を「神」が創造された「子」と間違えることはしないということです。
It does not look upon a body, and mistake it for the Son whom God created.

それは肉体を超越した光を見ます。触れることができるものを超越した考え、過ちや哀れな間違いや、罪の夢から来る罪悪感についての恐ろしい思いによって光を失わされることのない純粋性を見ます。
It beholds a light beyond the body; an idea beyond what can be touched, a purity undimmed by errors, pitiful mistakes, and fearful thoughts of guilt from dreams of sin.

それは分離を見ません。
It sees no separation.

そして、それはすべての人、すべての状況、すべての偶発事や出来事を、それが見る光を少しも弱めることなく見るのです。
And it looks on everyone, on every circumstance, all happenings and all events, without the slightest fading of the light it sees.



これは教えることが可能であり、それを達成するすべての人によって教えられなければなりません。
This can be taught; and must be taught by all who would achieve it.

それは、この世界は価値においてほんのわずかでもこれに匹敵するものを与えることはできないという認識、また、この世界にはこれが知覚されたときにただ消えてしまうことのない目標を設定することはできないという認識だけを必要とします。
It requires but the recognition that the world can not give anything that faintly can compare with this in value; nor set up a goal that does not merely disappear when this has been perceived.

そして、今日、あなたは次のことを与えることができます。
And this you give today:

会う人の誰も肉体として見ないでください。
See no one as a body.

彼が本来そうであるところの「神の子」として彼に挨拶してください。そして、彼は神聖性においてあなたとひとつであることを承認してください。
Greet him as the Son of God he is, acknowledging that he is one with you in holiness.




このようにして、彼の罪はゆるされます。というのは、「キリスト」にはそれらの罪をすべて見過ごす力があるからです。
Thus are his sins forgiven him, for Christ has vision that has power to overlook them all.

「キリスト」のゆるしによって、それらの罪は消えてなくなります。
In His forgiveness are they gone.

「一つの存在」によって見られなかった罪はただ姿を消すだけです。なぜなら、それらの罪の向こうに横たわる神聖性についてのヴィジョンがやってきてそれらの罪に取って換わるからです。
Unseen by One they merely disappear, because a vision of the holiness that lies beyond them comes to take their place.

それらの罪がどのような形をとったか、どれほど巨大に見えたか、誰がそれらによって傷つけられたように見えたかは重要ではありません。
It matters not what form they took, nor how enormous they appeared to be, nor who seemed to be hurt by them.

それらはもはやありません。
They are no more.

そして、それらの罪が及ぼすように見えた影響のすべては罪そのものと一緒になくなり、解除され、今後影響を及ぼすことは絶対にありません。
And all effects they seemed to have are gone with them, undone and never to be done.



このようにして、あなたは受け取るように与えることを学びます。
Thus do you learn to give as you receive.

そして、このようにして、「キリスト」のヴィジョンはあなたのことも見ます。
And thus Christ's vision looks on you as well.

「あなたの兄弟の中に見えるのはあなた自身でしかない」ということを思い出せば、このレッスンを学ぶことは難しいことではありません。
This lesson is not difficult to learn, if you remember in your brother you but see yourself.

もしもあなたの兄弟が罪の中で迷っていれば、あなたもそうであるに違いありません。彼の中に光を見るならば、あなたの罪はあなた自身によってゆるされたのです。
If he be lost in sin, so must you be; if you see light in him, your sins have been forgiven by yourself.

あなたが今日出会う兄弟の一人一人が、「キリスト」のヴィジョンをあなたの上に輝かせ、あなたに「神」の安らぎを差し出させるためのもう一つの機会を提供してくれます。
Each brother whom you meet today provides another chance to let Christ's vision shine on you, and offer you the peace of God.



いつ啓示がやって来るかは重要ではありません。というのは、啓示は時間に属さないからです。
It matters not when revelation comes, for that is not of time.

しかしながら、時間にはまだ与えるべき一つの贈り物があり、その贈り物において、非常に正確であるためにそのイメージが目に見えない神聖性を共有するような形で真の叡知が反映されます。その類似性はその不滅の愛と共に輝きます。
Yet time has still one gift to give, in which true knowledge is reflected in a way so accurate its image shares its unseen holiness; its likeness shines with its immortal love.

今日、私たちは「キリスト」の目によって観る練習をします。
We practice seeing with the eyes of Christ today.

そして、私たちが与える神聖な贈り物によって、「キリスト」のヴィジョンは私たち自身をも観てくれるでしょう。
And by the holy gifts we give, Christ's vision looks upon ourselves as well.




☆Lesson 154 以降を取り組むにあたっての翻訳者からのメッセージ
http://mmiracles-light.blogspot.jp/2014/01/lesson-154_6.html

☆今日のレッスンを聴くにはこちら
http://acim.org/Lessons/lesson.html?lesson=158

2014年1月13日月曜日

Lesson 157

《「神」の存在の中へと私は今入っていきます。》
Into His Presence would I enter now.
 
 
今日は沈黙と信頼の日です。
This is a day of silence and of trust.

今日はあなたのカレンダーにおいて特別な約束の時です。
It is a special time of promise in your calendar of days.

今日は「天国」が光を当てるために区別した特別な時であり、今日という日に時間のない光を投げかけ、永遠のこだまが聞こえる日にしたのです。
It is a time Heaven has set apart to shine upon, and cast a timeless light upon this day, when echoes of eternity are heard.

今日という日は神聖です。というのは、今日は新しい体験を導きいれるからです。すなわち、異なった種類の感情と自覚を導きいれるからです。
This day is holy, for it ushers in a new experience; a different kind of feeling and awareness.

あなたは長い日々と長い夜を、死を祝うことに費やしてきました。
You have spent long days and nights in celebrating death.

今日、あなたは生命の喜びを感じることを学びます。
Today you learn to feel the joy of life.




これはカリキュラムにおけるもう一つの重要な転換点です。
This is another crucial turning point in the curriculum.

私たちは今新しい次元を加えます。それは私たちがすでに学んだことのすべてに光を投げかける新鮮な体験であり、この新鮮な体験は私たちがこれから学ばなければならないことに対して私たちに準備をさせてくれます。
We add a new dimension now; a fresh experience that sheds a light on all that we have learned already, and prepares us for what we have yet to learn.

それは学びが終了する扉まで私たちを連れて行き、学びが達成可能な最高の高みの向こうに何が横たわっているかを私たちは垣間見ます。
It brings us to the door where learning ceases, and we catch a glimpse of what lies past the highest reaches it can possibly attain.

それは私たちをほんの瞬間の間その扉の前に置きます。それから、私たちが向かう方向と唯一の目標を確信して私たちはそれを乗り越えて前進します。
It leaves us here an instant, and we go beyond it, sure of our direction and our only goal.




今日、あなたは「天国」の感触を感じることができるでしょう。ただし、あなたは学びの道に戻ってくるのですが。
Today it will be given you to feel a touch of Heaven, though you will return to paths of learning.

しかしながら、あなたはこの道を十分進んできており、時間の法則を超越するのに充分なだけ時間を変えることができます。
Yet you have come far enough along the way to alter time sufficiently to rise above its laws, and walk into eternity a while.

そして、少しの間永遠の中に歩みいることができます。あなたはこれをすることをますます学んでいくようになります。それは、一つ一つのレッスンを忠実に練習していく中で、より速くこの神聖な場所へと連れていかれ、瞬間の間あなたの「自己」といる時間を持つようになる中で行われるでしょう。
This you will learn to do increasingly, as every lesson, faithfully rehearsed, brings you more swiftly to this holy place and leaves you, for a moment, to your Self.




「彼」が今日のあなたの練習の方向付けをしてくれます。というのは、今あなたが依頼していることは「彼」が意図することだからです。
He will direct your practicing today, for what you ask for now is what He wills.

そして、今日、あなたの意志を「彼」の意志と一つにしたがために、あなたが依頼することはあなたに与えられるに違いありません。
And having joined your will with His this day, what you are asking must be given you.

あなたのマインドに光を灯し、マインドを静かな期待と静かな喜びの中で休息させ、その状態ですばやくこの世界を後にするためには今日の考え《「神」の存在の中へと私は今入っていきます。》以外に何も必要ではありません。
Nothing is needed but today's idea to light your mind, and let it rest in still anticipation and in quiet joy, wherein you quickly leave the world behind.




今日から、あなたの聖職は真の献身性を帯びてきて、あなたの指先から流れ出る輝きはあなたが触れる人に届き、あなたが見る人たちを祝福します。
From this day forth, your ministry takes on a genuine devotion, and a glow that travels from your fingertips to those you touch, and blesses those you look upon.

ヴィジョンはあなたが出会うすべての人、あなたが思い浮かべるすべての人、あなたのことを思うすべての人に届きます。
A vision reaches everyone you meet, and everyone you think of, or who thinks of you.

というのは、あなたの今日の体験はあなたのマインドを大きく変容させるために、それは神聖な「神の思い」の試金石となるからです。
For your experience today will so transform your mind that it becomes the touchstone for the holy Thoughts of God.




あなたの肉体は今日神聖なものにされ、今や、その唯一の目的は、あなたが今日体験することのヴィジョンを持ってきてこの世界に火を灯すことになります。
Your body will be sanctified today, its only purpose being now to bring the vision of what you experience this day to light the world.

私たちはこのような体験を直接的に与えることはできません。
We cannot give experience like this directly.

しかしながら、それは私たちの目の中にヴィジョンを残し、そのヴィジョンを私たちはすべての人に対して差し出し、すべての人がより早く、この世界が忘れられて「天国」がしばらくの間思い出される同じ体験ができるようにすることができます。
Yet it leaves a vision in our eyes which we can offer everyone, that he may come the sooner to the same experience in which the world is quietly forgot, and Heaven is remembered for a while.




この体験が増えるにつれて、そして、これ以外の(自我からの)すべての目標が価値のないものになっていくにつれて、あなたが戻るこの世界は時間の終わりに少しだけ近づき、そのさまざまな方法においてこれまでより少し「天国」のようになり、その解放に少し近づきます。
As this experience increases and all goals but this become of little worth, the world to which you will return becomes a little closer to the end of time; a little more like Heaven in its ways; a little nearer its deliverance.

そして、この世界に光をもたらすあなたは、光がより確実に見えるようになり、ヴィジョンがより明確に見えるようになるでしょう。
And you who bring it light will come to see the light more sure; the vision more distinct.

あなたがいま姿として現れているのと同じ形で戻ることはない時がやって来るでしょう。というのは、あなたにはその形の必要がなくなるからです。
The time will come when you will not return in the same form in which you now appear, for you will have no need of it.

しかし、今はそれには目的があり、その目的にしっかりと奉仕するでしょう。
Yet now it has a purpose, and will serve it well.




今日、私たちはあなたが夢見ることさえなかったプロセスに着手します。
Today we will embark upon a course you have not dreamed of.

しかし、あなたに与えられた「神聖な存在」、生命について幸せな夢を「与える存在」、知覚を真実に「翻訳する存在」、神聖な「天国へのガイド」は、あなたのためにこの旅を夢に見たのであり、あなたは、今日という日があなた自身のものとするようにと差し出している体験をもって、この旅に出るのであり、今日出発するのです。
But the Holy One, the Giver of the happy dreams of life, Translator of perception into truth, the holy Guide to Heaven given you, has dreamed for you this journey which you make and start today, with the experience this day holds out to you to be your own.




今、私たちは「キリスト」の輝く顔と完璧な愛以外は何も意識することなく、穏やかに、「キリストの存在」の中へと入っていきます。
Into Christ's Presence will we enter now, serenely unaware of everything except His shining face and perfect Love.

「彼」の顔のヴィジョンはあなたのもとにとどまるでしょう。しかし、あらゆるヴィジョンを超越する瞬間があるでしょう。もっとも神聖なこのヴィジョンすらも超越する瞬間があるでしょう。
The vision of His face will stay with you, but there will be an instant which transcends all vision, even this, the holiest.

あなたはこれを教えることはありません。というのは、あなたは学びを通してそれを達成したのではないからです。
This you will never teach, for you attained it not through learning.

しかしながら、このヴィジョンは、あなたがその瞬間に知ったこと、そして再び確実に知るであろうことについてのあなたの記憶について語ります。
Yet the vision speaks of your rememberance of what you knew that instant, and will surely know again.




☆Lesson 154 以降を取り組むにあたっての翻訳者からのメッセージ
http://mmiracles-light.blogspot.jp/2014/01/lesson-154_6.html

☆今日のレッスンを聴くにはこちら
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